日浦孝則の脱退理由や津久井克行の最期に放った言葉に涙腺崩壊…class大ヒット「夏の日の1993」の秘密に驚きを隠せない…
みなさん、こんにちは。 デビュー曲「夏の日の1993」という曲で、総売り上げ 115万枚以上の、ミリオンヒットを記録し 一躍有名となった、日本の男性デュオグループ「class」の元メンバー、 日浦孝則(ひうら たかのり)さん。 しかし、classは、1996年に解散し、2003年に再結成。 その後、日浦さんは、2008年に脱退しました。 日浦さんはなぜ、脱退したのでしょうか。 そして、2009年、がんで亡くなられた、メンバーの、津久井克行さんに対し 最期に紡いだ、感動の言葉とは、どんなものだったのでしょうか。 ミリオンヒットした名曲「夏の日の1993」の秘密にも迫ります。 ぜひ、ごゆっくりと、ご覧ください。 まずは、プロフィールから見ていきましょう。 名前:日浦 孝則 職業:ミュージシャン 元classのメンバー 誕生日:1960年 1月17日 生まれ 出身地:日本 広島県 東広島市 所属レーベル:インディーズレーベル Paperisland Records 最終学歴:立命館大学 理工学部 日浦さんは、高校生の時から、バンドを組み 多くのコンテストなどに出ながら、25歳で上京。 27歳で、ソロデビューしたものの、花を咲かず 29歳の時、一般企業の会社員となりました。 しかし、1993年、33歳の時に、「class」デビュー。 その後、冒頭でも話しましたが、解散、再結成、脱退を経て 現在は、Vanilla Sky Recordsに、所属し、ソロ活動を、しています。 さて、日浦さんは、なぜ、脱退したのでしょうか。 メディアには、「家庭の事情で、脱退」と伝えられていますが 本当のところは、どうなのでしょうか。 真相に迫ります。 なんと、「家庭の事情で、脱退」とは、日浦さん自身が 伝えたものでは、なかったそうです。 真相は、1987年に結婚した、奥さんが、病気にかかったため 闘病生活を支えることを、重視したかったから、だそうです。 「妻の闘病のため」というところを、言わないで 伝えたところ、こうなったそうです。 実際、2007年に、奥さんは、卵巣がんが発覚。 闘病生活えを、支えるために、うたを、お休みしたそうです。 現在は、会社員の時の経験をいかして、 「建築家向けの、オートCADセルフラーニングソフト」 と呼ばれる、ソフトを開発しました。 これが、結構売れているようで、 3人の子供を養い、ソロ活動をしながら 生活できているようです。 次に、2009年10月2日。すい臓がんにより 49歳という若さで、この世を去った classのメンバー「津久井克行」さんへ紡いだ、 最期の言葉について、ご紹介します。 2009年、2月、体調不良を訴え、その後の診断で 短い余命を宣告された、津久井さん。 自らの歌手活動を、最後までやり通すことを、選択しました。 津久井さんの死後、東京、青山葬儀所にて 音楽葬が営まれ、関係者、ファン1500人が、参列しました。 会場は、故人が好きだった色と、ヒット曲「夏の日の1993」の アンサーソング「冬の日の2009」のイメージに合わせ、 かすみ草など、白色の花、3000本以上を敷き詰め 中央には、最後のライブとなった、8月の、神宮外苑の花火大会での ライブ写真、さらに、レコーディング風景やスタッフから贈られた 自画像などが飾られました。 場内外に設置されたモニターからは、ラストライブの映像や、 春に、リリースしたアルバムに収録された「桜」の未完成音楽ビデオなどを、上映。 ヒット曲「夏の日の1993」などが流れるなか、 業界関係者に混じって、日浦をはじめ親交のあった元プロボクサー・薬師寺保栄、 プロゴルファー・丸山茂樹、歌手の上田正樹などが、参列しました。 式の終了後、日浦さんは取材に、応じました。 「彼はライバルというか“戦友”でした。お互いソロ活動をしていたので、 ブログなどで、遠くから見ていました。2月に友人から、ガンだと聞いたが、 会ったのは、1年前のライブでの打ち上げが、最後。 まぁ、周りにガン闘病の人が多いですしね。 思い出としては『夏の日の1993』は事務所社長から 『日焼けサロンにいけ!』とか『ミュージックステーションって待ち時間が長いよなぁ』とか 思ったけど、もうそういう思い出が、作れないのは寂しい。 ここから先は、津久井の分まで歌い続けていきたい」と語った。 ぜひ、日浦さんには、歌い続けていって、もらいたいところですね。 最期に、デビュー曲で、ミリオンヒットを記録した、最大のヒット曲 「夏の日の1993」の裏話について、お話します。 「class」の二人は、もともと友人ではなく デビューの前年、事務所で突然、引き合わせられて 結成された仲だったそうです。 デビュー曲「夏の日の1993」を初めてきいた時 日浦さんは、「これはいける。売れる曲というものはこういうものか。」 と確信したそう。 芸能界という、世界に触れ、面白い体験ができました。 また、売れたらモテる、というのはなかったと、取材に対し 笑って語っていました。 ギャラは、月給制で、15万円だったそうです。 しかし、最初に、ソロデビューのたした時は 月5万円だったので、不満はなかったようです。 また、日浦さんは、 「今も「夏の日の1993」を覚えていてくれる方が、たくさんいて ライブに足を、運び続ける方がいることが、嬉しい」とも、語っています。 日浦さんは「class」解散後も音楽活動を、ずっと続けていて 自宅で引きこもって、曲作りに専念して、アルバムを作成していました。 感染対策をしたうえで、九州から、北海道までツアーで回り 30か所以上のライブハウス、カフェ、居酒屋などで、 歌っています。 お客さんが「やっぱり、生のライブはいいね」と盛り上がってくれるので 将来につながると信じているそうです。 ライブでは「夏の日の1993」をオリジナル音源で、歌っています。 お客さんは、それぞれの思い出が、フラッシュバックするようです。 感情が刺激されると、免疫力がアップすることは、 科学的に証明されています。だから、コロナにもきくと 笑って話しています。 歌声も、去年からミックスボイス(ミドルボイス)という 地声と裏声の、中間のような発声法を、 書籍やYouTubeで学び身につけたので、 楽に声が出せるし、音程は安定するので、 お客さんにも、より、楽しんでいただけているようです。 九州も北海道も、ライブで使用するスピーカーやアンプ、シュラフ、毛布を積み、 自分で運転して行く、日浦さん。 九州・天草なら、15分の仮眠を3回で、14時間ぐらいでラクに行くそう。 事故を起こしたら、とんでもないので、 自動運転機能が付いた、ミニワゴンの日産、セレナの新車を、購入し 、 車の屋根に、自分でソーラーパネルをつけ、 蓄電池にためて、ライブで使用するイヤモニの電気などをまかない、 ライブ用のオケ(伴奏)なども自前で作成。 手作りライブをして楽しんでいます。 好きなことしかやっていないからストレスがなく、 病院にはまったく縁がない日浦さん。 音楽をずっと続けていけるかな、という不安はあるけれど。 歌はあえぎ、苦しんでいる人間じゃないと、歌えないと考え そういうつらさは、ミュージシャンの宿と ここ五年くらいで、悟ったそう。 振り返れば、再デビューの話が出てはつぶれ、の繰り返しだったため 一番苦しかったのは、最初のソロ活動の後から「class」デビュー前の間だったそう。 山あり谷ありの人生と語る、日浦さん。 けれど、常に一家の大黒柱を、つとめていました。 「class」解散後の99年に、 先ほども話しましたが、ある大手建設会社の関係会社から委託を受け、 自学習ソフトなどを製作し、それらのアップデートや新規開発をする、 という副業を20年間続け、定額の給料をいただいていたそう。 そのおかげで、ローンが組めて16年前、都内に3階建ての 戸建てを、建てました。 自分で設計したそうで、完成した時は さぞ、嬉しかったことでしょう。 いかがでしたか? 最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。 コメントを残してくれると、嬉しいです。 チャンネル登録・高評価もぜひお願いいたします。 それでは、また。