みなさん、こんにちは。 漫才コンビ「ツービート」としてブレイクし、 俳優、映画監督として才能をを持ち、 芸能界の重鎮になられている、ビートたけしさん。 華やかな人生を歩んでいるようにも見えますが、 実は、過去に自殺しようとしていた話や、 逮捕されて活動を自粛していた事もあり、 実は、壮絶な人生を歩んでこられていました。 今回は、そんなたけしさんの壮絶な人生にフォーカスして、 数々の逸話をご紹介します。 ぜひ最後までみていってください。 ビートたけしさんは、1947年1月18日に生まれ、 東京都足立区島根の出身です。 学歴は、明治大学工学部 機械工学科を除籍されたのち、 特別卒業認定されたようです。 ちなみに、たけしさんの本名は、北野武ですが、 「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」 という願いを込めて「武」と名付けられたそうです。 愛称は、「たけちゃん」「たけし」「殿」「世界のキタノ」です。 たけしさんは、なんと4人兄弟の末っ子のようです。 長男の重一さんは、 たけしさんの18歳年上で、 宇野製作所の取締役を務めておられましたが、 2012年、83歳で、ガンのため他界、 次男の勝さんも、 たけしさんが生まれる前に幼少期に他界されたそうです。 そのため、三男の大さんは次男として、 四男のたけしさんは三男として育てられたそうです。 さて、たけしさんのお話の前に、 今では想像できない時代背景のため、 たけしさんの両親のお話からご紹介いたします。 たけしさんのお母さん・さきさんは、 千葉県市原で農業を営む裕福な家庭に誕生するのですが、 さきさんのお母さんは、さきさんを産むと、すぐに亡くなり、 さらには、お兄さん2人と お姉さん1人も、子どもの頃に相次いで亡くなってしまいます。 その後、さきさんは、お父さんとおじいさんに育てられるのですが、 さきさんが尋常小学校を卒業する頃、お父さんも他界。 そのため、さきさんは、 13歳にして、東京の高山というお屋敷に奉公に出ざるを得なくなります。 ただ、裁縫一つまともにできなかったさきさんは、 奉公先の高山家では、おもにトイレ掃除などの雑用をさせられていたそうです。 それでも、裁縫ができる方が待遇が良かったため、 さきさんは、自分のおやつを差し出す代わりに、 奉公頭に裁縫を習ったそうです。 そんなある日のこと、 高山家の主人である高山市平さんが、 娘たちに三味線を習わせるため、 かつて「竹本八重子」という芸名で、 娘義太夫(女義太夫)のスターだった、 北野うしさんを自宅に招いたそうですが、 さきさんは、うしさんから、 機転が利くところを気に入られ、 「北野家の嫁にしたい」と、 息子の北野徳次郎さんとの結婚話を 持ちかけられたのでした。 こうした流れでさきさんは、 徳次郎さんと1923年1月に結婚されるのですが、 なんと、徳次郎さんは、結 婚して7ヶ月後の8月18日には、 「盲腸炎」で急死してしまいます。 そこで、このままでは跡取りがいなくなってしまうと、 うしさんが、徳次郎さんのいとこにあたる、 正瑞菊次郎さんとの結婚をさきさんに勧め、 1925年、さきさんは、 菊次郎さんを婿養子に迎える形で再婚されたのでした。 ただ、菊次郎さんも、 仕事の腕は良かったものの、お父さん譲りの放蕩で、酒癖が悪く、 浪費家だったため、結婚してまもなく、 さきさんの店をつぶしてしまいます。 そのため、菊次郎さんとさきさんは、 たけしさんの18歳年上の長兄・重一さんをつれて、 夜逃げ同然で逃げ出し、足立区に移り住まれたのでした。 こうして、夜逃げ同然で逃げ出し、足立区島根町に移り住んだのち、 菊次郎さんとさきさんの間に生まれたたけしさんは、 農業と職人の町で育ちました。 父親がペンキ塗りに転職するも稼げず 母親の内職で生計を立てており、貧乏な家庭で育てられたようです。 ちなみに、お兄さんの北野大さんによると、 当時はまだ、カラートタンも合板もなかったため、 家を建てる時は、屋根から樋(とい)、 羽目板、廊下、ときには壁まで、 ペンキ塗りの仕事はいくらでもあり、 それを5~6軒も請け負えば、ゆうに一ヶ月暮らせたそうで、 お父さんの菊次郎さんは、足立区に引っ越してからは、 漆塗り職人からペンキ塗りに職を替えられたそうです。 ただ、地元の職人たちから素人だと軽んじられ、 なかなか仕事を回してもらえなかったそうで、 家族ぐるみの付き合いをしていた隣に住む工務店から、 建築の刷毛仕事を請け負っていたものの、 大して稼ぐことができず、そのうえ、 元来の放蕩癖もあり、 家にお金を入れることができなかったそうです。 その分、お母さんのさきさんが内職で稼ぎ、 せっせと貯金をされていたそうで、 太平洋戦争が始まる頃には、 家を建てることができる貯金は貯まっていたそうです。 そんな生活の中、たけしさんは、 おばあさんである北野うしさんには、とても可愛がられるも、 お母さんのさきさんからは、とても厳しく育てられます。 というのも、さきさんは、幼い頃、 まともな教育を受けておらず、 貧乏の悪循環を断ち切るためには教育しかない、と思い込んでいたそうで、 いつも寝る前には、子どもたちの鉛筆を削り、 教科書やノートの点検、 さらには、子ども達が学校に行くと、 必ず、窓の外からちゃんと授業を受けているか確認されたというのです。 そレほど教育熱心なお母さんのお陰か、 たけしさんは小学校時代、成績は優秀で、 特に算数と図工が得意だったそうで、 小学校卒業後は、お母さんが進学校を希望され、 近隣の中学校ではなく、 遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学しました。 中学卒業後は、偏差値の高かった足立高等学校に進学されました。 当時、トップの神学校は都立が上野で私立は開成だったようで、 その中で、足立高等学校は この2校が駄目だった人が行くような超がつくほどの進学校でした。 北野家では、すでに、 一番上のお兄さんの重一さんが、 大学卒業後、就職し、 家計を支えるようになっていたそうですが、 それでも、お母さんは内職を続け、 さらには、西新井大師の団子屋でアルバイトや ヨイトマケをしながら、子どもたちの学費を工面していたそうです。 高校と大学を卒業後、「ツービート」として、活動を始めたたけしさん。 漫才ブームの波に乗り、漫才ブームが去った後も、 ピンでさらなるブレイクを果たした、ビートたけしさんですが、 1994年8月、バイク事故で大ケガを負ってしまいます。 たけしさんは、事故の前夜、 南青山の日本料理店と西麻布の焼き鳥屋で 日本酒4合ほど飲むと、その後、 一旦、別宅として使用していた乃木坂の事務所に帰宅して シャワーを浴びた後、原付きバイクで外出したのですが、 新宿区の路上でカーブを曲がりきれず、 ガードレールの鉄柱に激突して事故を起こしました。 すぐに東京医科大学病院に緊急搬送され、 一命は取り留めたものの、 「頭蓋骨陥没骨折」など重傷を負ってしまったのでした。 そして、一部の関係者以外は面会謝絶、 予断を許さない状態となってしまったのでした。 後にたけしさんは、 「普通なら即死、良くて植物状態」と当時の事故を語っています。 しかし、たけしさんは、 翌月の9月下旬には、退院するほどまでに回復しました。 ただ、退院会見の場に現れたけしさんの姿は、 顔が曲がって口元は大きく歪み、 目の焦点も合っていないという、 非常に痛々しい姿で、集まった芸能記者達も絶句。 それでも、たけしさんは、 治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにするよ。 死について考えることができたのはいい勉強になった。 この事故は、たけし軍団が ブレーキに仕掛けしたんじゃねえかと思ってるんだ。 と、事故前と変わらぬ毒舌とジョークを連発。 健在ぶりをアピールされたのでした。 夜にサングラスでブレーキ痕もなしだった この事故についてはたけしさんは、 その部分だけはほとんど記憶がない。 事故は自分の不注意だった。 と、語っておられるのですが、 事故の日、たけしさんは、 夜にもかかわらず、 サングラスのような色の濃いゴーグルをかけていたことほか、 事故現場は見通しの良い緩やかなカーブでブレーキ痕も残っておらず、 飲酒していたとはいえ、 そのような場所で事故を起こすことは考えにくかったことから、 なぜ、そんな時間に一人でバイクを運転していたのか? 一体、どこに行こうとしていたのか?と、 様々な疑問点が残りました。 ただ、たけしさんは、この事故の1週間前、 「スーパーJOCKEY」で毎週共演していた、 女優でタレントの細川ふみえさんが、 たけしさんのマンションに出入りしているところを、 写真週刊誌にスクープされており、 このスクープを受け、たけしさんは、 テレビで記者会見を開くと、否定も肯定もせず、 集まった報道陣に三択問題を出して 好きなものを選ばせるという、 けむに巻いた形で会見を終了したのです。 細川さんは、「たけしさんは 私のマンションに一度も来たこともないし、 場所さえ知らないんです。」 と、否定されているのですが、 細川さんは、たけしさんの事故当日、 翌日のテレビ出演のため、 赤坂にあるホテルに泊まっていたそうで、 偶然にもたけしさんが向かっていた方向と一致していたことから、 たけしさんは細川さんに会いに行く途中だったのではないかと 噂されたのでした。 また、後ほどご紹介しますが、1986年に 「フライデー襲撃事件」を起こしているのですが、 その引き金となった愛人の存在のほか、 家庭内別居、さらには、1993年、 私生活で親しかったアナウンサーの逸見政孝さんの死去、 そして、細川さんとの不倫報道と、 様々な問題を抱えていたことから、 突発的な自殺だったのではないか、とも噂されたのですが、、 フランスのドキュメンタリー映画 「北野武 神出鬼没」の中で、蓮實重彦さんに、 (バイク事故は)自殺願望があったのですか? と、尋ねられたたけしさんは、 記憶がない。現場の血を見てぞっとした。 「自殺したんだな」と思った。 下手したらもう1回するような気がする。 一番のファンは一番足を引っ張ろうとする。 その人が落ちていく様を見たがっているものだと 事故の時に痛感した。 いつも不安で不安で仕方がない。 おれほど憶病者はいない。 開き直らないとむちゃできない。 お笑いの仕事はどこか売春婦的な心でやっている。 と、語っておられます。 真相はわかりませんが、 当時、かなりのストレスがあったのは間違いないと思われます。 生死を彷徨う大事故を起こしたビートたけしさんですが、 実は、事故を起こす以前に、「たけし軍団」11名とともに、 写真週刊誌「フライデー」編集部に乗り込んだ事があります。 これは、 1986年12月9日未明の出来事で 世に「フライデー襲撃事件」とも呼ばれています。 1986年12月8日、 「フライデー」の契約記者が、 当時、たけしさんと交際していた21歳の専門学校生の女性に、 東京都渋谷区にある女性が通う専門学校の校門付近で、 たけしさんとの関係について聞こうと声をかけたのですが、 女性が立ち去ろうとしたため、前方に立ちふさがり、 テープレコーダーを女性の顔に突きつけると、 手を掴んで引っ張るなどしたため、 女性は、「頭部捻挫」「腰部捻傷」で 全治2週間のケガを負ってしまいます。 このいきさつを、後で女性から聞いたたけしさんは、激怒。 12月9日午前2時頃、 「フライデー」の発行元である講談社に、 「担当者を出せ おいらの姉ちゃんに何やってんだ」 と、電話します。 ただ、その記者がおらず、 連絡がとれないままだったため、 たけしさんは、2時半頃、 再び、講談社に電話をし、 9日午後の面会を取り付けたのですが、 怒りが収まらなかったのか、 たけしさんは、午前3時過ぎ、 「たけし軍団」の一部のメンバーを除く11人と タクシー3台に、それぞれ4人ずつ乗って 「講談社」本館の「フライデー」編集部に乗り込むと、 どちらからともなく一斉にもみ合いになります。 そして、たけしさんと「たけし軍団」は、 ぶち殺すぞ、この野郎! と、叫びながら、粉末消火器を噴射したうえ、 講談社の編集長及び編集部員らに、 室内にあった雨傘や拳で殴る蹴るの暴行を加え、 肋骨骨折などのケガを負わせたのでした。 その後なんと、たけしさんと「たけし軍団」の12人は、 「住居侵入」「器物損壊」「暴行」容疑の現行犯で逮捕されました。 ただ、逃亡のおそれなしとして、ほどなくして釈放されたのでした。 ちなみに、たけしさんは、連行される際、警察官に向かって、 こいつら(たけし軍団)には手錠しなくてもよくないか? と発言し、 「たけし軍団」のメンバーには、 「こんなことになってすまなかったなあ」 と、言ったそうで、これを聞いた軍団は全員号泣したそうです。 交際していた専門学校生への執拗な取材に激怒し、 講談社「フライデー」編集部をたけし軍団とともに襲撃した、 ビートたけしさん。 当初、世論はたけしさんに同情的だったのですが、 同日夕方には、「フライデー」側がさっそく会見を開き、 「言論・出版の自由を脅かす暴挙に対して、断固たる態度で臨む」 と、コメントを発表するとともに、 たけしさんに殴られた編集部員の写真などをマスコミに公開しました。 すると、当初は、けがの様子を臆することなく披露し、 こんな事件に「言論の自由」云々を持ち出す「フライデー」側に対して、 世論の批判は大きかったのですが、 やがて、新聞系のメディアが、テレビも問題の当事者である と、テレビ局への批判を強めていき、 12月15日、たけしさんが事件後初めて、 「元気が出るテレビ」の番組収録で復帰すると、 たけしさんへの世論の批判も一気に高まりました。 これを受け、当時たけしさんが所属していた「太田プロダクション」は、 たけしさんと「たけし軍団」のメンバーに 約半年間の芸能活動自粛を言い渡し、 たけしさんは、12月22日の記者会見を最後に、 約半年間、公式メディアに登場することはなかったのでした。 ちなみに、たけしさんは、記者会見中、 お茶の間に与えた影響をどのように考えているか との質問に対して、 親が家庭を守るように、俺の場合は愛人もいたから、 それを守っただけで、そういう行為を絶対悪く思ってない、 ただ、暴力行為、集団でもみあったという行為が悪いとするならば、 それは、親が、あれはたけしが悪いんだ、と言えばいいだけのこと。 それが、子どもに悪影響を及ぼすということは、 それ以前の問題。子どものことというのは、 俺の事件の前にもイジメで死んでるやつはいるし、次元が違うと思う。 と、答えられているほか、 世間ではたけしさんの支持が多いですが? という質問に対して、 大衆というのは声が大きい方に付くものだ、 マスコミが僕を叩き出せば一緒になって叩き始める。 でも、そういうところで食ってきたんだからしょうがない。 と、逃げも隠れもしない、筋の通った発言をされており、 現在においても、ネット上で大きな反響を呼んでいます。 その後、たけしさんと講談社の間には示談が成立したのですが、 当時の官房長官・後藤田正晴氏が、 この事件をきっかけに、 写真週刊誌による政治家たちのスキャンダル報道を食い止めようと意図し、 これは略式起訴による罰金刑ではなく、 裁判にしなければいけないと発言しました。 これにより、たけしさんは裁判にかけられると、 1987年6月10日、懲役6ヶ月、 執行猶予2年の判決が下り、控訴しなかったため、刑が確定。 ちなみに、謹慎中、たけしさんは「たけし軍団」に対し、 俺もお前らも芸能界にいられなくなっちゃってごめんな。 土方(どかた)やってでもお前らを一生養わなきゃなぁ と語ったと言われています。 世論にも大きな影響を与えた、「フライデー襲撃事件」ですが、 実は、たけしさんが「フライデー」を襲撃した原因は、 交際していた専門学校生への執拗な取材だけではなかったようです。 たけしさんが裁判で語ったところによると、 以前、「フライデー」に、 奥さんが子どもを私立の学校の入学試験に連れていくところを 写真に撮られたことがあったそうですが、 そのせいで、その学校から、 子供の写真が週刊誌に掲載されるようでは入学させられない と、不合格になっていたというのです。 このように、家族に対して、 執拗な取材があったことも事件の一因だったようで、 日頃からの「フライデー」に対する鬱憤が蓄積していた中、 専門学校生への執拗な取材があり、 「フライデー」襲撃となったのでした。 そんなたけしさんは、2019年9月10日放送の 「FNS27時間テレビ~にほんのれきし」に出演された際、 「フライデー襲撃事件」について、 当時は語っていなかった真相を明かしました。 実はたけしさんには、以前から、 フリーライターから、取材の依頼をずっと受けていたようで、 売れないライターが可哀想だからという理由で、 何度か会ってあげていたようです。 しかし、実はそのライターはフリーライターではなく、 「フライデー」の記者だったようで、 フリーライターと偽ってスパイ行為をしていたことを明したのでした。 そういった裏切りのような行為にも憤りを感じて、 ケンカになってしまったようです。 たけしさんを慕う「たけし軍団」が起こした大きな事件ですが、 実は、「たけし軍団」にもかかわらず、 つまみ枝豆さん、井手らっきょさん、 ラッシャー板前さんの3人は、この襲撃に参加していません。 なぜ、この3人は参加しなかったのでしょうか。 まず、井出さんは、愛人の家にいて連絡がつかず、 ラッシャー板前さんは、痔の手術で入院中だったそうです。 ただ、つまみ枝豆さんに関しては、 たけしさんがメンバーを招集する際、 枝豆だけは動かすな と、言ったというのです。 というのも、つまみ枝豆さんは、 「たけし軍団」に入る前は、 右翼団体員で逮捕歴があり、 木刀を持ってソ連領事館の塀を乗り越えたこともあるほど、 一本気なところがあったそうで、 たけしさんはそれを知って、 つまみ枝豆さんだけは呼ばなかったのでした。 実際、事件をテレビで知ったつまみ枝豆さんは、 自分が参加できなかったことを強く恥じ、 講談社側の行った記者会見をテレビで見て、 彼らの顔をチェック。 刃物を用意して、記者会見中に襲おうとしていたそうで、 つまみ枝豆さんが、まさに出かけるその瞬間、 じっとしてろ! と、拘置所のたけしさんから電話があり、 襲撃を思いとどまったというのです。 事件後、たけしさんは、 「太田プロダクション」を退社し、 個人事務所「オフィス北野」を設立されています。 実は、たけしさんは、復帰直後、行く先々で、 右翼団体に復帰時期尚早と街宣をかけられており、 このことを「太田プロダクション」に相談したそうですが、 まったく対処してもらえなかったそうで、 らちのあかない状況に、たけしさんは、 事務所を退社することを条件として、自ら、 街宣を指示していた右翼団体幹部のもとに 出向くことになったのだそうです。 実際、たけしさんは、自ら、 右翼団体幹部と交渉して、ことを収めたというから凄すぎます。 そんなビートたけしさんには、長年連れ添った元奥様がおられます。 いったい、どんな方だったのでしょうか。 たけしさんは、1983年、 女流漫才師だった松田幹子さんと結婚されています。 幹子さんは、大阪出身で、 武庫川女子大学短期大学部在学中に、 「ピンアップトリオ」のピンアップ敦子さんの弟子になると、 1971年には、「司ミキ」の芸名で 「司ミワ」さんとコンビを組み、 女子大生コンビ「ミキ&ミワ」として漫才師デビュー。 ただ、人気はパッとしなかったのか、すぐに「渚ミキ」に改名。 その後、一時的に前田五郎さんに師事した後、 東京に移ると、内海桂子さん・内海好江さんに弟子入りし、 「内海ミキ」の芸名で内海ミチさんと 漫才コンビ「ミキ&ミチ」を組み活動するも、2年で解散されています。 そんな幹子さんとたけしさんの馴れ初めですが、 たけしさんが、1978年、 「ツービート」として演芸番組「大正テレビ寄席」に出演した際、 アシスタントのアルバイトをしていた幹子さんと知り合い、 交際に発展したそうで、 ほどなくして同棲されると、幹子さんは、 漫才師を引退し、近所のスナックでアルバイトをしながら、 たけしさんの下積み時代をサポートされたそうです。 そして、1979年に漫才ブームが到来し、 たけしさんが一躍人気漫才師となられると、 1981年には、長男の篤さん、翌年の1982年には、 長女の井子(しょうこ)さんが誕生しました。 そして1983年に、ようやく入籍されました。 ちなみに、なかなか入籍されなかったのは、 お二人の不仲が原因だったようで、 特に、井子さんが誕生した頃は、 離婚を前提とした話し合いの最中だったとも言われており、 たけしさんは、後に、 勝手に婚姻届を出された と、言ったり、 別居をネタにするなど、 結婚生活は付かず離れずの関係がズルズルと続いていた状態だったようです。 とはいっても、たけしさんは、 決して幹子さんをないがしろにしていた訳ではなく、 毎週金曜日には夫婦でともに食事をしたり、 1月18日のたけしさんの誕生日には、 「たけし軍団」を招いて恒例のパーティーを開き、 幹子さんが手料理をふるまうなど、 冷え切った関係という訳ではなかったようです。 そんなお二人の間に誕生したお子さんですが、 まず、1981年に誕生した長男の篤さんは、 以前、たけしさんの芸能事務所 「オフィス北野」の代表取締役を務められていたのですが、 現在は、クリエーティブエージェンシー 「博報堂ケトル」に所属し、 プランナーとして活動されているそうです。 また、1982年に誕生した長女の井子(しょうこ)さんは、 1988年にYOSHIKIさんのプロデュースで 歌手デビューしたこともありましたが、 本人の意思ではなく、当時、 反抗期真っ盛りだった井子さんを心配したたけしさんの意向だったようで、 ほどなくして、歌手活動は立ち消えとなっています。 というのも、井子さんは、 両親が別居のなか育ったこともあってか、 反抗期の時にはかなり荒れ、 お母さんの幹子さんと殴り合いのケンカを繰り返していたようです。 そんな情緒不安定な井子さんを見て、 自責の念を感じたたけしさんが 井子さんの芸能界入りを計らったのではと言われています。 ちなみに、井子さんは、その後、 2004年に調理師の男性と結婚し、 2005年3月には、女の子を出産されているのですが、 その後、離婚。 娘さんは、井子さんが引き取ったそうですが、 現在、その娘さんは、たけしさんの養子となっているようです。 下積み時代からの糟糠の妻である幹子さんと、 長らく、つかず離れずの関係を保っていたビートたけしさんですが、 ある出会いから一変します。 それは、たけしさんは、2014年7月、 「週刊文春」により、18歳年下のA子(当時49歳)さんと 不倫関係であることが報じられたことがきっかけです。 「週刊文春」によると、たけしさんは、 2012年に、A子さんとお酒の席で知り合われたようで、 たけしさんは、たけしさん名義の目黒区のデザイナーズマンションに A子さんを住まわせ、半同棲状態になっていたそうで、 誌面には、二人が食事を終えて 店から出てくる写真が掲載されたのでした。 そんなA子さんのお父さんは、 大手広告代理店の元幹部、国会議員の秘書を経て、 地元の熊本で県会議員を務めたこともある名士とのことで、 A子さん自身も、 一時は関西の高級ホテルの「アドバイザー」という肩書きを持ち、 2009年には、 ホテル事業の関連会社を立ち上げたこともある、 才色兼備のやり手だそうです。 この報道を受け、たけしさんの所属事務所 「オフィス北野」の代表である森昌行さんは、 毎日のように、たけしさんが A子さんのマンションに泊まりに行っているのは、 否定しなかったものの、 たけしさんとA子さんは、 男女の仲ではなく仕事の関係で、 たけしさんは、世田谷の家が改修工事に入るため、 A子さんのところに泊まらせてもらっているだけだと、 男女の関係は否定されています。 しかし、たけしさんは、2015年秋、 東京・世田谷の豪邸とその土地を、 夫婦共有名義から「北野武」名義に変更すると、 2018年3月には、妻・幹子さんと長男・篤さんが 代表取締役を務める「オフィス北野」から独立し、 新事務所「T.Nゴン」をA子さんと共に設立。 そして、2019年元旦、 「スポニチ」が「たけし離婚調停」と報じると、 たけしさんは、それから4日後の生放送の情報番組で、 調停なんか終わっているよ、バカヤロー! あとはハンコを押すだけだ と、発言され、 2019年6月、ついに、幹子さんと離婚されたのでした。 ちなみに、たけしさんの年収は15億円~18億円とも言われ、 これまで稼いだお金は100億円は下らないと言われているのですが、 A子さんと住む等々力の自宅以外の全財産は、 全て幹子さんに譲り渡し、 身一つでA子さんの元へ行ったと言われています。 たけしさんが、どれほどA子さんに惚れ込んでいたのかが分かりますね。 不倫関係の報道後、2019年6月には、 妻・幹子さんと離婚が成立した、ビートたけしさん。 その離婚に際しては、 とんでもない額の財産分与がされたと言われているのですが、 実は、数100億円以上と言われた財産分与を元妻は否定していました。 当時、200億円以上とも言われる財産をもらうことで離婚に同意した、 という噂があったのですが、 そのような規模の財産が現存するという事実はありませんし、 それらを分与したという事実もございません。 と、200億円以上とも言われる財産を受け取ったことは否定されました。 また、2019年6月15日には、たけしさんが報道番組で、 お金取られた、情けない! 車を返納しちゃったから免許は必要なくなっちゃった。 財産はなくて、家だけ! と、苦笑いしながら、初めて離婚について言及されているのですが、 このたけしさんの発言についても、幹子さんは、 当方の認識とは全く異なります と否定されたのでした。 このように、フライデー襲撃事件やバイク事故のほか、 不倫、隠し子疑惑など、様々な報道をされてきたたけしさんですが、 2021年には、自身が乗る車が襲われる事件も起きました。 事件を起こした40代後半の男は、 銃刀法違反容疑で逮捕されたのですが、 この男性は、なんと指定暴力団住吉会系の組関係者であることが 捜査関係者への取材でわかったのです。 ただ、事件に暴力団が絡んだ形跡はなく、 犯行を犯した男は、警視庁の調べに対して、 「6月下旬に土下座して弟子入りを頼んだが無視され、 根に持っていた」と話していましたが、 説明につじつまの合わない点もあり、 この男性がたけしさんを一方的に恨んでいた可能性が高く、 器物損壊の疑いもあるようです。 事件を担当した、赤坂署によると、 たけしさんを乗せた車がTBSの敷地内を走行中、 犯人が突然車に襲いかかったようです。 犯人は「たけし出てこい」などと叫びながら、 急停車した車のフロントガラスや窓ガラスをつるはしで 何度もたたいたようです。 たけしさんと運転手は無事で、 男は駆けつけた警察官に 小刀を不法に持っていたとする銃刀法違反容疑で逮捕されました。 芸能界のレジェンドのたけしさんですが、 このような事件が起こると、本人も怖いと思います。 いかがだったでしょうか。 今回は、北野武さんの壮絶な過去のエピソードと、 数々の逸話をご紹介いたしました。 まだまだ元気なたけしさんの活躍を これからも楽しみにしたいですね。 最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。 コメントを残してくれると、嬉しいです。 チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。 それでは、また。
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