ベンジーこと浅井健一を突然襲った事故に驚きを隠せない…!『BLANKEY JET CITY』本当の解散理由や妻との離婚の真相に一同驚愕…!

ベンジーこと浅井健一を突然襲った事故に驚きを隠せない…!『BLANKEY JET CITY』本当の解散理由や妻との離婚の真相に一同驚愕…!

みなさん、こんにちは。

BLANKEY JET CITYとはベンジーこと

浅井健一(vo&g)、照井利幸(b)、中村達也(dr)という

現ロック界の大物たちが同居した奇跡のロッケンロール・バンドです。

短いキャリアで目立った売り上げを作った訳でもない彼らですが、

日本ロック史の中でも重要な位置におり、

現在第一線で活躍するミュージシャンや

芸能人に影響を受けた方は数多くいます。

90年代にメジャデビューし、骨太な本格派ロックバンドとして活躍。

しかし、ながら2000年に解散を発表しました。

解散発表の仕方がユニークで、当時大きな話題となっていました。

朝日新聞の一面(全体広告)に2000年5月10日に発売になる新譜

「HARLEM JETS」の宣伝と共に解散宣言を添えたのです。

最終的には同年のフジロックでラストライブを決行し解散してゆきました。

ベンジーが「最後の曲やるよ」とMCを入れる。

その口調はまるで友達や恋人に話してる様に優しく、

いかに彼がファンを大切に思っていたかが

切実に伝わってくるものだった。

と同時に、今日初めてメンバーから

BJCがラストであることを表明した言葉でもある。

そしてベンジーはさらに何か思いついたようなしぐさをみせて、

もう一言付け加えた。

「きっと 世界中で 音楽はすごい大切だと思う」

その場面はまるで映画のように美しい1シーンと話題となりました。

今となってみれば伝説のバンドですね。

そこで今回は、伝説のロックバンド

『BLANKEY JET CITY』で活躍した浅井健一さんの若い頃や

身長・ギター、そして年収や自宅などの現在までについてまとめました。

まずは、プロフィールです。

名前:浅井健一(あさいけんいち)

生年月日:1964年12月29日

出身地:愛知県名古屋市名東区

血液型:AB型

体重:59kg

職業:ロック歌手、ギタリスト、音楽プロデューサー

米屋と営む家庭で生まれた浅井健一さんは、

愛知県立長久手高等学校を中退後、高所作業員として働いています。

そんな浅井健一さんは17歳の頃、

交通事故で入院したことがきっかけで絵や詩を創作するようになったのです。

浅井健一さんの身長は171cmで、

日本人男性の平均身長より少し高いくらいなのです。

しかし浅井健一さんは小顔なことから、

実際の身長より高く見えるようです。

浅井健一さんの若い頃の経歴についても調査します。

1987年、THE BLANKEY JET CITYを結成

高校中退後は高所作業員として働いていた浅井健一さんは、

スキャッツというバンドで活動していましたが、

その後上京し『THE BLANKEY JET CITY』を結成したのです。

1990年、イカ天に出演

そして1990年に多くのバンドを輩出してきた

『イカ天』に出演したTHE BLANKEY JET CITYは

第6代グランドイカ天キングを獲得し東芝EMIと契約したのです。

そして、翌1991年にアルバム『Red Guitar And The Truth』で

メジャーデビューしたTHE BLANKEY JET CITYは初登場8位を記録し、

以降多くの曲をリリースし、若者を中心に人気を博したのです。

2000年、解散

伝説のバンドとして絶大な人気を得た

BLANKEY JET CITYでしたが、

以前から解散の話しは絶えず出ていたのです。

そんなBLANKEY JET CITYは2000年、

『おれたちは解散します』と突然解散宣言し、惜しまれつつ解散しています。

解散後は他のバンド&ソロとして活躍しています。

2000年のBLANKEY JET CITY解散後、

浅井健一さんは、1999年に『SHERBETS』を結成しています。

そして、2001年にはSHERBETSと平行する形で、

UAをボーカルに迎えた『AJICO』や、

2002年にはスリーピースバンド『JUDE』を結成し活躍しています。

そして、2006年からソロ活動をスタートさせた浅井健一さんは、

同年にファースト・アルバム『Johnny Hell』をリリースし、

翌2007年にはアルバム2枚を同時にリリースし、

全国で26本のツアーも行っています。

プライベートでは1996年にモデルの小野寺マリと結婚。

BLANKEY JET CITYとして活躍していた1996年に

モデルの小野寺マリさんと結婚し話題となりました。

また浅井健一さんは結婚後、

3人の子宝(長女、長男、次女)にも恵まれています。

家族の詳しい話は後ほど解説しますが

浅井健一さんと言えばグレッチギターで有名で、

その中でも『グレッチ・テネシアン』がトレードマークなのです。

ちなみにこのグレッチギターは、

浅井健一さんの大ファンである椎名林檎さんの曲

『丸ノ内サディスティック』の歌詞の中に

“私をグレッチでぶって~”と登場しています。

そんな浅井健一さんは、グレッチ・テネシアンの他、

フェンダー・ジャズマスターやギブソン、

レスポールなども愛用しています。

気になる現在はというと、

現在もミュージシャンとして活躍しているそう。

浅井健一さんは現在、

2005年に活動を再開したバンドSHERBETSで活動しています。

そんな浅井健一さんは2020年には、

SHALLOW WELL名義で10年ぶりに

インストゥルメンタル・アルバム『SPINNING MARGARET』

そして2016年に結成した

浅井健一& THE INTERCHANGE KILLS名義でシングル

『TOO BLUE』をリリースするなど精力的に活動しています。

また浅井健一さんはBLANKEY JET CITYが解散した年に

インディーズレーベル“SEXY STONES RECORDS”を立ち上げ

経営者としても活躍しているのです。

こうして経営者としても活躍する浅井健一さんは

年収についても注目が集まりましたが、残念ながら不明でした。

ただ浅井健一さんは経営者以外にもミュージシャンとしての収入や、

出版した本の印税などもあることから、

年収も相当な額の可能性が高そうです。

そんな、順風満帆に見える生活ですが

実は、2018年、離婚していたことが判明します。

それでも、離婚後も週の半分は自宅に帰宅しているそう。

1999年に結婚し3人の子宝に恵まれた浅井健一さんは、

2009年のインタビューでは『子供たちがいてくれることが、

自分の生きがいを感じる時かな。

めちゃんこかわいいもん』と明かしていました。

しかし、2018年に発売した詩集

『宇宙の匂い』で離婚していたことが明らかになったのです。

そんな浅井健一さんは、週の半分は自宅へ帰り子供たちと過ごし、

それ以外は別宅に戻るという生活をしているそうです。

すでに離婚されている?というインタビュアーの質問に対しては

「ええ。でも今、彼とはすごくいい関係なんですよ。

彼も週の半分は、こちらに来て、子どもたちと過ごしています。

それ以外は別宅にいるんですが、

距離があるほうが、離婚する前よりもいい関係です。」

と元奥さんは行っていますので円満離婚だと分かりますね。

そんな、今でも充実した生活を過ごす浅井健一さんの

バンドであるBLANKEY JET CITYの解散理由について

最後に調査していきます。

解散してしまった理由には様々な説があります。

ブランキーが新聞の全面広告で

「最高のアルバムができたので解散します」と宣言したということで

”ブランキーの最大限を出し切った”

”これ以上に良い活動はできない”

など、あたかもバンド限界説から結び付ける人もいるみたいですが

それはあり得ません。

実際にはメンバー間の軋轢、作りたい作品への意識の変化が主な理由です。

1995年に初めての海外ライヴを行った際、

メンバー3人の個性が激しくぶつかり、

そこで一度はバンド解散を考えたそう。

しかし、日本に戻っての代々木公園でのフリーライブで

13000人を集めたことに感動し、

海外で考えていた解散の案を撤回しました。

しかし、1年後の1995年には

メンバーそれぞれがソロ活動を開始するなど、

メンバー内で軋轢が解消されていないことが伺えました。

1998年に発表された7枚目のアルバム「ロメオの心臓」では、

当時世界的なバンドに成り上がったばかりのレディオヘッドの影響で、

作曲を担当してる浅井健一さんが打ち込みを駆使するようになりました。

結果、バンド楽器の味で勝負してきた他メンバーから顰蹙を買い、

信頼関係が悪くなってしまいました。

過去にメンバー同士が喧嘩し、解散になりかけたことは幾度もあったそうです。

有名なのは95年の海外ツアー中と、

98年の7枚目のアルバム制作時の2回。

しかし、実際には解散を考えたことなど何度もあったそうです。

浅井健一さんと照井利幸さんの不仲説は強く、

浅井健一さんが「ソロワークとしてやってきた

SHERBETSでやったような音はBLANKEYに持ち込むことはねえ。

遠慮があるんよ。それだけに摩擦が起きないようにしてた」と、

バンドとソロの活動の葛藤について語ったこともあったくらいです。

ミュージックステーションに浅井さんが出演した際には

「色々あるんですよ」と生々しいコメントをしてました。

その後、時代は変わっていき若年層はロックを離れポップに行き、

2000年代を前にして景気が悪化し純粋にロックを奏でてるだけでは

飯を食うのが難しい時代に入ろうとしてました。

それでもブランキーはシンプルなロックバンドであるべき、

なくてはならないという葛藤がありました。

そこで作曲してるメンバーの音作りの変化もあったりなので

空中崩壊するのは仕方ないことです。

元々、B’zのようにスタジアムでおっさんになった後も

派手にやるタイプのバンドではなかったのです。

小箱中箱で生粋のロック好きが好き放題暴れることができるようなバンド、

元々は長く続かない運命だったとも言えます。

まるで喧嘩して崩壊したイメージのあるブランキーですが、

実は現在もメンバー同士の仲は悪くないみたいです。

未だに同じステージに立ったり、交流が続いてるそうです。

ブランキーの元仲間のことは気軽にネタにしてるみたいです。

浅井さんのソロアルバムにメンバーの1人が共演することは稀にありました。

元々、同じような系統の3人が集まったのがブランキーです。

同じ系統の中での個性がぶつかったということで、

それが深い傷になってしまったのかなと思います。

いかがでしたか?

最後までご視聴ありがとうございました。

コメントを残してくれると嬉しいです。

チャンネル登録、高評価も是非お願いいたします。

それでは、また。

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