みなさん、こんにちは。 テレビ時代劇「水戸黄門」などで知られる 俳優の佐野浅夫(さの・あさお)さんが 6月28日午後9時59分、老衰のため 京都市内の自宅で亡くなられました。 お歳は96歳でした。 所属事務所によると 家族のみの密葬を執り行ったそうです。 そこで今回は、佐野浅夫さんの 経歴、家族について 見ていきたいと思います。 最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。 まずは、佐野浅夫さんの プロフィールから見ていきましょう。 本名:佐野浅夫 生年月日:1925年8月13日 身長:168cm 出身地:神奈川県横浜市 最終学歴:日本大学藝術学部 所属事務所:アクターズセブン 2006年、ドラマ『名奉行! 大岡越前』で ゲスト出演して以降 俳優活動をセーブしていました。 おそらく年齢的に芸能活動を続けるのは 難しくなっていたのでしょう。 ただしボランティア活動には 意欲的に取り組んでいました。 水戸黄門の扮装で老人ホームを 訪れたこともあるそうです。 また各地で、朗読や講演も行ってきました。 彼は2007年、初めて 自身の戦争体験を語っています。 佐野さんは戦時中 劇団「苦楽座」に参加していました。 劇団は移動演劇隊「桜隊」となり 各地を慰問することになりますが 佐野さんは特攻隊に応召され劇団を脱退。 そして8月6日、広島を慰問していた桜隊は 原爆により壊滅します。 団員の1人である仲みどりさんは 被爆した身体のまま、死に物狂いで 広島から東京へ帰りました。 佐野さんは彼女が東京帝国大学付属病院に 入院したことを知り 仲間の消息を聞きに見舞います。 しかし寝たきりの彼女に 何も聞けませんでした。 仲さんは、原爆の後遺症に 苦しんだ末に亡くなります。 リーダーの丸山定夫さん ヒロイン女優の園井恵子さんも含め 慰問メンバー9人は全員が死亡。 佐野さんは長年、自分だけが 生き残ったことに苦しんできました。 沈黙を守り続けたものの 当時を知る人が誰もいなくなったタイミングで 2007年8月6日に重い口を開いたのです。 東京都目黒区で毎年行われていた 五百羅漢寺での追悼式典で 仲間への思いと反戦を訴えました。 自身の体調に無理のない範囲で 反戦活動と社会貢献を続けてきた佐野さん。 亡くなられた事が、本当に残念です。 そんな佐野浅夫さんの経歴を 見ていきたいと思います。 佐野さんが舞台俳優としてデビューしたのは 日本大学芸術学部に在学していた1943年。 前年に結成されたばかりの劇団 「苦楽座」へ参加しました。 当時18歳の佐野さんは最年少だったため 周囲の団員にかわいがられたといいます。 1945年に苦楽座は、各地を慰問する 移動演劇隊「桜隊」へ改称しました。 先ほど言った通り、桜隊は原爆で壊滅し たまたま応召されていた佐野さんは 生き残りました。 戦後は「劇団民藝」の設立へ参加 数々の舞台に出演。 しかし1971年に劇団内で対立が生じると 下條正巳さんや佐々木すみ江さんたちと共に 退団しました。 以降はテレビドラマを中心に 脇役として活動しています。 朗読役としては NHKラジオ『お話でてこい』で 4,000回の放送を達成。 さらに『せん爺さんの太鼓』をはじめ 童話の創作も行っています。 長年の朗読活動を通して 作家というストーリーテラーとしての才能も 自然と備わったのかもしれませんね。 佐野さんは1993年から7年間 ドラマ『水戸黄門』で 三代目の黄門様を演じました。 初代の東野英治郎さん 二代目の西村晃さんは 風格のにじみ出る立派な黄門様でした。 しかし佐野さんは、これまでとは一風変わった 「泣き虫黄門様」を演じます。 涙もろくて心優しい黄門様は 庶民的な雰囲気の佐野さんらしい魅力に 満ちたキャラクターでした。 246回もの出演をこなした佐野さん。 多くの人に愛された彼の黄門様は 世代を超えて 語り継がれていくかもしれませんね。 三代目の黄門様を演じた佐野浅夫さんですが 水戸黄門の五代目として知られる 里見浩太朗さんとは、親戚にあたるそうです。 これからは佐野浅夫さんの 家族について見ていきます。 里見さんは芸名を使っているため ピンと来ないかもしれませんが 本名は「佐野邦俊」です。 2人は又従兄弟でした。 最初に三代目黄門様の オファーを受けたのは 里見さんだったそうです。 里見さんは五代目の黄門様ですが 当時は何らかの事情でオファーを断っています。 結果的に又従兄である 佐野さんに白羽の矢が立ちました。 また里見さんの息子は 俳優の佐野圭亮さんです。 「水戸黄門」シリーズをはじめ 多くの時代劇で脇役を務めてきました。 圭亮さんとって佐野さんは 族父にあたります。 佐野一家は「水戸黄門」シリーズに 貢献してきた、俳優一族といえますね。 そして、佐野さんは これまで2度結婚しています。 初婚は1950年で、妻は 英子さんという女性でした。 著書『わたしのお弁当劇場』を発表し 40年以上、夫のお弁当を 作ってきたことを公表しています。 著書からわかる通り おしどり夫婦だったといえますね。 しかし1998年、英子さんは 亡くなってしまいます。 佐野さんはショックで 一時芸能活動を休止しました。 そして2年後、21歳年下の育子さんと再婚。 佐野浅夫さんが83歳の時には 「徹子の部屋」に一緒に 出られていたようです。 育子さんは、祇園にある お座敷の女将だったため きっと人好きで面倒見がよかったのでしょう。 1人で寂しく過ごしている「男やもめ」の 佐野さんを世話してあげようと 同情心から結婚したようです。 これにはさすがの黒柳徹子さんも たじたじになられたそうです。 しかし今では、おしどり夫婦として 暮らしています。 2010年から育子さんは 目黒でギャラリーを兼ねた京料理店 「紫惟(しのい)」を営み始めたそうです。 2021年現在の運営状況は不明ですが 高齢の夫の面倒を見ながら 続けられる仕事をしているのでしょう。 また、お子さんはお二人いるようです。 お兄さんのほうはどうやら 大学の教員のようですが 一般人の方なのでそれ以上のことは わかりませんでした。 次男は川村晃司さんです。 競輪の選手のようで、かなり凄腕のようです。 その記事がありました。 『「瀬戸の王子杯争奪戦・G3」(9日、玉野) 2日目12Rに「ももたろう賞」(優秀)が 行われ、8番手に置かれた 川村晃司(41)=京都・85期・S1=が 最終バックからのまくり追い込みで1着。 2000年8月のデビューから 1525走で通算400勝を飾った。 レースは正攻法の三谷竜生(奈良)が 打鐘前に誘導員をかわして先頭へ。 打鐘で柴崎淳(三重)が仕掛け 3~4角で出切るが 後ろの岩津裕介(岡山)が離れ 三谷が番手にハマる。 最終2角手前から三谷が番手まくりを放つが 8番手になってしまった川村が 外を豪快に踏み上げ ゴール前で三谷をかわして1着。 レース後の川村は 「(通算400勝は)長い短いというより 迫ってからが長く感じましたね。 通過点と思うので 今後も勝ち星を増やしたいです」と語った。 川村は3日目(10日)11Rの準決勝に登場。 決勝進出(3着まで)を目指す。』 この記事は2018年のものですが 合計でなんと、400勝もしていたみたいです。 親戚含め、佐野浅夫さんの家族は すごい方だらけですね。 ということで今回は、佐野浅夫さんの 経歴、家族について見ていきました。 楽しんでいただけましたか? 俳優業に留まらず、ボランティア活動なども 積極的に行ってきた佐野浅夫さん。 御冥福をお祈りします。 最後まで動画をご視聴いただき ありがとうございました。 コメントを残してくれると嬉しいです。 チャンネル登録、高評価も是非お願いいたします。 それでは、また。
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