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原田芳雄の子供達や孫の職業に驚きを隠せない…『冬物語』で人気を博した名俳優の晩年に息子・原田喧太に遺した言葉に涙が零れ落ちた…

原田芳雄の子供達や孫の職業に驚きを隠せない…『冬物語』で人気を博した名俳優の晩年に息子・原田喧太に遺した言葉に涙が零れ落ちた…

みなさん、こんにちは。

2011年に肺炎のため亡くなった俳優・原田芳雄(はらだ よしお)さんの孫

原田琥之佑(はらだ こうのすけ)さんが

8月公開の映画『サバカン SABAKAN』で俳優デビューすることがわかりました。

原田芳雄さんといえば、

アウトローの役者として100本以上の映画に出演し、

俳優・松田優作さんや、佐藤浩市さんにも慕われた

偉大な俳優です。

今回は、原田芳雄さんについて、

生い立ちや俳優になるまでの経歴、

出演作品、

ご家族について紹介していきます。

最後までご視聴いただければ嬉しいです。

原田芳雄さんは、戦時中の1940年、

東京府東京市の下町、現在の東京都台東区に生まれました。

生まれてすぐに栃木県に疎開し、

小学4年生までそこで過ごしました。

この頃は浪曲や落語が好きで、

東京に戻ってからは美空ひばりさんの物真似をして歌っていたそうです。

その後ジャズに目覚めた原田少年は

焼け跡に建てられた、バラックと呼ばれる仮設住宅に住みながら

プロのジャズシンガーになって新しい家を建てることを夢見ていました。

しかし、中学時代に出場したラジオ局主催のジャズののど自慢大会では、

本選に進出したものの、

鐘一つの評価で落とされたそうです。

高校は日本人形作りの職人だった父親のいいつけで

工業高校に進学したものの、

機械が苦手で成績は悪く、

周りについていけないことが原因で対人恐怖症になってしまいます。

そんな原田さんに、同級生が勧めたのが演劇でした。

演劇の魅力に取り憑かれた原田さんは、

高校卒業後一度は就職したものの、

1年半で退社し俳優座養成所に入団します。

その後、「花の15期生」と呼ばれた15期生の1人として

養成所を卒業した原田さんは、

俳優座へ正式入団し、舞台を中心に活躍しました。

1967年、フジテレビ『天下の青年』でテレビドラマデビュー、

翌年1968年には映画『復讐の歌が聞こえる』で

復讐に燃える主人公を演じ

映画デビューを果たします。

1971年、俳優座の体質を批判し、俳優仲間とともに退座したものの、

ワイルドなアウトロー風のキャラで大ブレイクを果たし、

100本以上の映画やドラマに出演します。

原田芳雄さんの出演作品と役柄を少しだけ紹介しましょう。

1969年に出演したテレビドラマ『五番目の刑事』では

ジーパンスタイルでジープを乗り回す刑事を演じました。

それまで背広姿で堅いイメージだった

刑事ドラマのイメージを根底から覆した異色作でした。

翌年1970年の映画『反逆のメロディー』でも

上下ジーパン、しかも上は素肌にGジャンに

サングラス・長髪といった出で立ちでジープを乗り回し

バーボンをラッパ飲みするヤクザを演じています。

出演作品には、他にも

映画『新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ』

『野良猫ロック・暴走集団’71』

『関東流れ者』『関東幹部会』などがあります。

いづれもアウトロー役であり、

松田優作さんをはじめとした

当時の若手俳優たちに大きな影響を与えました。

その後も亡くなる2011年まで、

映画やドラマに出演し続け

日本アカデミー賞や報知映画賞など

数々のアワードを受賞しました。

日本映画界に名を残した原田さんですが、

プライベートはどのようだったのでしょうか。

続いては、原田芳雄さんの家族についてまとめていきます。

原田さんは俳優座退座前の1970年、

章代さんという一般の女性とご結婚されています。

俳優座時代、原田さんが役作りで悩んでいた時に

制作部で働いていた章代さんのアドバイスを受けたことがきっかけで

親しくなったそうです。

しかし、当時の原田さんはまだ駆け出し。

新婚生活は華々しいものではありませんでした。

原田さんのお給料は現在の価値で1万円程度だったそうで、

三畳一間のアパートからのスタートでした。

しかも、その時の章代さんは妊娠7ヶ月でした。

当時の原田さんを知る

俳優で作家の中村敦夫(なかむらあつお)さんは、

次のように語っています。

「1971年、俳優座と衝突した原田は、

僕や市原悦子さんらと退団してしまった。

テレビに出てるといっても劇団員の給料は安い。

赤ちゃんもいるのにやめるんだから、

奥さんも大変だったと思います。」

お2人の間には、娘さんと息子さんの

2人のお子さんがいらっしゃいます。

息子さんは、ミュージシャン・原田喧太(はらだ けんた)さん。

ソロアーティストとして活動しながら、

吉川晃司さんや及川光博さん、

KinKi Kids、大黒摩季さんなど、

数多くの有名ミュージシャンのライブやレコーディングに参加しています。

娘さんは、女優・原田麻由(はらだ まゆ)さん。

2人ともご両親から受け継がれた才能を生かし

芸能界で活躍されているようです。

さて、原田芳雄さんの話に戻りましょう。

俳優として活動を続けていた2008年のこと。

元々病院嫌いだった原田さん。

定期検診を受けていなかったところ、

急に胃の調子が悪くなってしまいます。

診察の結果、早期の大腸がんを患っていたことが分かりました。

それでも摘出手術を受け、約1か月の静養ののち、

同年末には俳優に復帰しました。

原田さんはそれ以降も精力的に活動を続け、

2009年にはNHKドラマ『火の魚』

翌年2010年には、映画『大鹿村騒動記』などに出演します。

『大鹿村騒動記』は原田さんご自身が企画し、映画化を進めました。

別のドラマのロケで長野県大鹿村を訪れた原田さんは

そこで観た村歌舞伎に大感激。

「あれこそ日本芸能の原点だ」と思った原田さんが、

なんとしてもこの村歌舞伎を自分の手で映画化し主役を演じたいと思い

阪本順治監督に資料を見せて打ち合わせに臨んだそうです。

しかし、2011年、

テレビドラマ『高校生レストラン』レギュラー出演中、

病状が悪化。

途中降板を余儀なくされてしまいます。

実は2008年に大腸がんが発見された時、

ご家族の方には余命2年と宣告されており、

すでに末期の状態だったのです。

がんの進行、転移。

映画『大鹿村騒動記』の完成披露試写会には車椅子姿で出席したものの、

この時はすでに話すことすらままならなかったそうです。

試写会の8日後、原田さんは

『大鹿村騒動記』の公開を見届け、亡くなったのでした。

享年71歳でした。

息子の喧太さんによると、原田さんは亡くなる2日前

「もう駄目だ」

と呟いたそうです。

これが原田芳雄さんの、最初で最後の弱音でした。

病床でも次にやる作品の話をしていたそうで、

最後の最後まで俳優であり続け、燃え尽きた原田さん。

そんな原田芳雄さんの魂は

数多くの作品で生き続けています。

この動画をご覧になられている皆さんも

原田芳雄さんの出演作品をご覧になってはいかがでしょうか。

最後に、お孫さん・原田琥之佑(はらだ こうのすけ)さんの

俳優デビューについてお伝えします。

琥之佑さんは2010年、喧太さんとその奥さんの間に生まれました。

親戚に俳優の佐藤浩市さんがおり、

幼い頃から日本映画に触れて育ったそうです。

原田芳雄さんは1歳半の時に他界されており、

直接的な思い出はほとんどないそうですが、

芳雄さんの遺作『大鹿村騒動記』を繰り返し鑑賞し、俳優業に憧れを抱いてきたそうです。

琥之佑さんは

「周りがみんな『芳雄』と言うので僕も物心ついた時からそう呼んできました。

大好きな芳雄と同じ道を走れることが、ものすごくうれしい」

と語っています。

偉大な祖父を持つことへの重圧は全くないそうで、

「芝居をしてみて、僕はメンタルが弱い部分があると分かった。

堂々と芝居をする芳雄はやっぱりすごい」

と現在12歳とは思えない、落ち着いた口調で語っています。

祖父・原田芳雄さんや、父親・喧太さんの表現力を受け継ぐ琥之佑さん。

俳優として一歩踏み出した彼の将来が楽しみです。

いかがでしたか?

今回は俳優・原田芳雄さんの半生と、

お孫さん・原田琥之佑さんの俳優デビューについて紹介しました。

是非、原田芳雄さんの出演作品と一緒に

琥之佑さんのデビュー作『サバカン SABAKAN』を

ご覧になってみてくださいね。

最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。
芸能LAB編集部