大瀧詠一が亡くなる直前に全力で放った妻への”遺言”に涙腺崩壊…『A LONG VACATION』がミリオンセラーを記録した歌手を突然襲った病魔の正体に驚きを隠せない…
みなさん、こんにちは。
日本のポップス史に多大な足跡を残し、
今なおJ-POPシーンに影響を与え続ける大瀧詠一さん。
ソロアルバムの『A LONG VACATION』はミリオンセラーを記録し、
国産CDの第一号となりました。
ドラマ『ラヴ・ジェネレーション』の主題歌『幸せな結末』での復活は、
ファンを喜ばせてくれましたね。
しかし、2013年に突然の訃報、
音楽と共に歩んだ人生に幕を閉じました。
今回はそんな大瀧詠一さんの生涯についてまとめてみました。
まずは、大滝さんの生い立ちや出身地についてご紹介します。
岩手県江刺郡梁川村(のちの江刺市、現在の奥州市)生まれ。
母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、
小学校・中学校でそれぞれ転校を経験しています。
小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの
『カラーに口紅』に衝撃を受けて以降、
アメリカンポップスに興味をもちます。
中学入学後にラジオクラブに入り、ラジオを自作し、
米軍極東放送やニッポン放送の番組を聴くようになります。
そして間も無く、レコード収集をするようになり、
エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に
聴くようになり、独自の研究を深めます。
そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて
覚えているというほど精通されていたそうです。
洋楽面でのみ語られがちですが、
同時期には小林旭さんや三橋美智也さんなども好んで
聴いていたそうです。特に、クレージーキャッツの
植木等が歌う『スーダラ節』には非常に影響を受けたとされています。
1964年、岩手県花巻北高等学校に入学し、
下宿で一人暮らしをしますが、授業料を全部レコードにつぎ込んでいたため、
一年で退学させられてしいます。
その後、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入します。
入学直前、米軍極東放送でビートルズを知り、
以降リバプール・サウンド全般をたくさん買っていたそうです。
編入後、初めてバンドを組みます。
バンドの名前は『スプレンターズ』で、ドラムを担当します。
本来ならコミックバンドをやりたかったそうですが、同志が見つからず、
やむなくビートルズタイプのバンドを組みました。
1967年に上京し、一度就職するも3ヶ月で退職します。
退職する数日前、余興でビートルズの『ガール』をアカペラで歌ったところ、
上司から「うん、キミはこういうところにいるべき人間ではない」と諭されたそうです。
その頃から既に才能を発揮していたようですね。
1968年に早稲田大学第二文学部に入学します。
1970年にアルバム『ぱっぴいえんど』でデビューします。
フォークロックバンド・はっぴいえんどは、21歳の大瀧詠一さんが
細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんと結成した、
ロックを日本語で歌う革新的なバンドとなりました。
ぱっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、
1972年にアルバム『大瀧詠一』を発表します。
はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、
当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、
ごまのはえ、布谷文夫などの若手プロデュースを始めます。
1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・
原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、
エレックレコードと契約します。
翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム
『NIAGARA MOON』を発表します。
1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍します。
その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルの
マルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、
3年でアルバム12枚を制作するという内容でした。
1978年の『LET’S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消し、
福生45スタジオの機材も売却します。
1979年からプロデュース業を手がけ、翌1980年にプロデュースの仕事で
出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍します。
1981年3月に『A LONG VACATION』を発表します。
当初は売上が低迷していましたが、徐々にセールスを伸ばし、
夏にはチャート2位を記録します。
そして、第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞を受賞します。
1997年に『幸せな結末』を発表します。
月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌として、
ミリオンセラーを達成します。
また、2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、
地元の同級生に電話をかけて安否確認をする等、
震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生に
サインを入れた自身のCDを贈りました。
そんな波瀾万丈な人生を送っている大滝詠一さんについて
衝撃的なニュースが舞い込んできました。
それは、大瀧詠一さんの訃報でした。
大瀧詠一さんは、2013年12月30日17時30分頃、
東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートに
りんごを食べている時に倒れ、救急搬送され
そのまま、息を引き取ってしまいます。
死因は解離性大動脈瘤でした。
しかし、大瀧詠一さんには亡くなる直前にこんなエピソードがありました。
実は、亡くなる一週間前に風邪といって2日ほど寝込んだそうです。
しかし、その症状は風邪ではなく足腰に力が入らない状態だったといいます。
そのような状況の中で、地面を這うようにして移動していたといいます。
やがて、「オレ、脳が疲れたよ」と漏らしたそうです。
自覚症状なのか、仕事が思うようにならないことを例えたのか、
とにかく体がほぼ動かず、頭もとなると重篤さがうかがえます。
しかし、2、3日後には回復し、日常生活のなかで食事も摂れるようになっていたといいます。
亡くなる当日も、仕事でスタジオに行っていたそうです。
しかし、体はやはり無理をしていたのか夕飯時にその時はやってきてしまいます。
妻の静子さんは、大瀧詠一さんのためにりんごを剥いていたそうです。
すると、突然大瀧詠一さんの大きな声が聞こえます。
その声にびっくりした静子さんが大瀧詠一さんの方を見ると
椅子にもたれかかり、ぐったりとしていたそうです。
すぐに、静子さんは、救急車を呼び、救命措置をしていましたが
すでに大滝さんの顔にはチアノーゼが起こっていたのでした。
静子さんは、救急車が到着するまで 、懸命に救命措置をしていましたが
そのまま、帰らぬ人となってしまいました。
静子さんが最後に聞いた大瀧詠一さんの大きな声は
『ママ、ありがとう』という言葉だったそうです。
まさに死力を尽くして愛する妻への感謝を伝えたそうです。
その幕閉じの仕方には、感動はもちろんカッコよささえも覚えてしまいます。
ここからは、憶測でしかありませんが
大瀧詠一さんは、突然身体に異変を感じ、自分に最期が近いことを
悟っていたのかもしれませんね。
そんな、大瀧詠一さんの命を奪った解離性大動脈瘤とは、大動脈の壁に縦の裂け目ができて、
血管が膨らんでしまう疾患なのだそうです。
想像するだけでも恐ろしいですが、一度の発症が突然死につながるケースも多いとのことです。
芸能界でも、笑福亭笑瓶さんや加藤茶さんが発症、笑福亭笑瓶さんはゴルフの
プレイ中に倒れ、加藤茶さんは違和感を自覚してから半月ほど間があって病院を
受診して発覚したそうです。
加藤茶さんのケースを考えると、助かっているのに対し大滝詠一さんは
一週間ほどの違和感で還らぬ人となりました。
そもそも、大動脈は三層からなっており、大動脈解離は、
中膜がもろくなっていることが原因のようです。
とはいえ、なぜそんなことが起きるのかというと、
動脈硬化につながる高血圧が諸悪の根源という見方があるようですね。
となると、そのまた原因となる生活習慣や、加齢、
ストレス、肥満というところに行き当たるようです。
この怖い症状は、特別なものではなく、
加齢とともに誰もが気をつけなければならないのかもしれませんね。
65歳での突然の訃報は音楽界に多大な衝撃を走らせ、
数多くのアーティストが追悼コメントを発表しました。
佐野元春さんは、音楽界から大きな星が消えたとしつつも、北斗七星が如く、
大瀧詠一さんが空から見守ってくれているという旨のコメントをされました。
また、内田裕也さんも自身の好みとは違えど、評価されるべきジャンルである
という旨で大瀧詠一さんの音楽を讃えました。
そして、泉谷しげるさんや木村拓哉さんも感謝の意を述べられました。
亡くなられてから改めてその偉大さが伝わってきます。
葬儀では未発表だった本人歌唱バージョンの『夢で逢えたら』が流されました。
柩ははっぴいえんどのメンバーだった細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんたちによって
抱えられたそうです。
大瀧詠一さんが生み出した名曲の数々は、歴史に刻まれ、いつまでも
人々に愛聴され続けることでしょう。
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それでは、また。