山本潤子の夫との突然の切ない別れに涙腺崩壊…『翼をください』で知られる女性シンガーソングライターの子供達の職業に驚きを隠せない…

山本潤子の夫との突然の切ない別れに涙腺崩壊…『翼をください』で知られる女性シンガーソングライターの子供達の職業に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは。

「翼をください」「卒業写真」

などの名曲で知られる

シンガーソングライター・山本潤子さんの

現在が話題です。

今回は山本潤子さんの経歴や

ヒット曲の数々を振り返り、

急逝された夫の山本俊彦さん、

2人の子供、病気の噂や

現在の様子などについてまとめました。

まずは基本的な山本潤子さんの

プロフィールについて調べてみました。

本名:新居潤子

生年月日:1949年12月30日

出生地:奈良県吉野郡天川村

出身地:大阪府大阪市阿倍野区

血液型:A型

最終学歴:帝塚山大学卒業

山本潤子さんは、

奈良県吉野郡の天川村で

4人姉妹の末っ子として生まれました。

生後半年で父親の実家である

大阪市阿倍野区に移住し、

そこで成長しました。

大学卒業までは関西で過ごし、

地元の南大阪幼稚園を卒園後、

苗代小学校、阿倍野中学校と進み、

奈良県奈良市の私立の名門。

帝塚山高校を経て

帝塚山大学卒業という学歴を持ちます。

山本潤子さんは、学生時代、

地元の大阪市阿倍野の歩道橋の上で、

当時フォークグループ

「ロックキャンディーズ」で

活動していたシンガーソングライターの

谷村新司さんに声をかけられて

コーラスグループ「ヒルビリー・シンガーズ」

を結成しますが、

わずか3ヶ月ほどで脱退しています。

山本潤子さんは、1969年、

ミュージシャンの後藤悦治郎さんに

「ヒルビリー・シンガーズ」から

引き抜かれる形で、

フォークソンググループ

「赤い羽根」を結成します。

この時、一緒にのちの夫となる

山本俊彦さんも「ヒルビリー・シンガーズ」から

引き抜かれています。

「赤い羽根」はその年の

「ヤマハ・ライト・ミュージックコンテスト」に出場し、

小田和正さん率いる

「オフコース」を抑えて

見事グランプリを勝ち取ります。

「赤い羽根」はその翌1970年に

シングル「人生/赤い花白い花」

にてコロムビアレコードからメジャーデビュー。

さらにその翌1971年に、

アルファ・アンド・アソシエイツに

移籍してリリースした

「竹田の子守唄/翼をください」が

100万枚を超える大ヒットとなり、

「赤い羽根」は一躍国民的な

人気グループになり、

山本潤子さんの知名度も急上昇しました。

その2年後の1973年4月、

山本潤子さんはメンバーの

山本俊彦さんと結婚しています。

なお、「赤い羽根」では、

リーダーの後藤悦治郎さんと

ピアノ担当の平山泰代さんも

1974年2月に結婚されています。

その後、「赤い羽根」は

メンバー間での音楽路線の対立から

1974年9月に解散し、

同年10月、山本潤子さんは

夫の山本俊彦さんと、

ベースの大川茂さんと共に、

コーラスグループ

「ハイ・ファイ・セット」

を結成しています。

1975年、山本潤子さんと

「ハイ・ファイ・セット」は

「東芝EMIエキスプレス」から、

ユーミンこと荒井由美さん作詞作曲の名曲

「卒業写真」をリリースして

メジャーデビューし、

同曲の大ヒットもあって、

瞬く間に国民的人気グループとなりました。

1977年、ブラジルの

人気シンガーソングライター・

モーリス・アルバートのヒット曲

「愛のフィーリング(原題・Feelings)」

をカバーした「フィーリング」が大ヒットとなり、

山本潤子さんと「ハイ・ファイ・セット」は、

その年の紅白歌合戦にも

出演を果たしました。

その後も「ハイ・ファイ・セット」は、

ユーミン作詞作曲の

5thシングル「冷たい雨」や、

小田和正さん作詞作曲の

28thシングル「忘れないわ」など、

数多くのヒット曲を飛ばしたのち、

1992年ん活動を休止。

その後、1994年9月に

「ハイファイセット」は解散しています。

「ハイ・ファイ・セット」解散後、

山本潤子さんはシンガーソングライターとして

ソロ活動を開始。

1994年10月にはソロデビューアルバム

「JUNKO YAMAMOTO」

をリリースしています。

山本潤子さんはソロでの活動後も

人気を上昇させ、

1997年11月に開催された

サッカーワールドカップの予選や、

1998年の長野オリンピックの

スキージャンプ競技での表彰式イベントなどで

名曲「翼をください」を歌唱し、

多くの日本国民や

世界中のスポーツファンからも

その素晴らしい歌声が称賛されました。

その後も、山本潤子さんのソロとしての

音楽ツアーや楽曲リリースをはじめ、

2000年に「Song for Memories」、

2001年に「V3」など、

一流のミュージシャンたちと

音楽ユニットを結成した他、

全国各地で様々な音楽イベントにも出演し

精力的に活動を続けました。

そして、2014年5月6日の名古屋での

コンサートを最後に、

山本潤子さんは無期限の

音楽活動休止に入り、

現在も音楽活動の再開は発表されていません。

続けて、山本潤子さんの

代表的なヒット曲を紹介します。

「卒業写真」

ユーミンこと松任谷由実さんの

イメージが強い「卒業写真」ですが、

元々は「ハイ・ファイ・セット」のために

提供された楽曲です。

松任谷由実さんによるセルフカバーをはじめ、

多くの一流歌手たちがカバーしてきた

国民的名曲ですが、

そのオリジナルこそが、

この山本潤子さんの歌う「卒業写真」です。

「冷たい雨」

この「冷たい雨」も

松任谷由実さんの作詞作曲の名曲です。

「ハイ・ファイ・セット」の

5thシングルとしてリリースされ

大ヒットを記録しました。

「卒業写真」もそうですが、

リリースから何十年経っても

全く色褪せない名曲中の名曲です。

年を重ねた山本潤子さんの歌声も

素晴らしいの一言です。

「忘れないわ」は、

小田和正さん作詞作曲の楽曲で、

「ハイ・ファイ・セット」としては

最後にリリースされたシングル曲です。

これぞ、小田和正という美しいメロディと、

山本潤子さんの美しい声と

完璧な歌唱力が絶妙にマッチした

至高の一曲だと言えるのではないでしょうか。

ここで紹介した以外にも、

山本潤子さんは数々のヒット曲を歌われています。

続いては、山本潤子さんが

1973年4月に結婚した夫

山本俊彦さんについても紹介します。

山本俊彦さんは1947年2月23日生まれで、

山本潤子さんの2歳年上です。

1969年の「赤い鳥」結成時から

ギターとして参加し、

その4年後に結婚、

「赤い鳥」解散後の

「ハイファイセット」でも共に活動し、

妻の山本潤子さんと

ずっと一緒に音楽活動を行ってきました。

1994年の「ハイ・ファイ・セット」解散後は、

音楽プロデューサーとして

活動していました。

しかし、山本俊彦さんは2014年3月27日、

自宅2階で倒れているのを

妻の山本潤子さんによって発見され、

病院に搬送されましたが

その日のうちに死亡が確認されました。

山本俊彦さんの死因は「虚血性心不全」で、

享年は67歳でした。

山本潤子さんは夫との突然の死にも

気丈に振る舞っていたそうで

「ツアーを頑張ってやる」

と関係者に話されていたのだそうです。

また、山本潤子さんの2人の子供は

長女が小学校教諭、

次女が大学生だという事も

明かされています。

山本潤子さんの長女が

小学校教諭になったのだとすれば、

生徒たちに自分の母が歌った

「翼をください」を教えるような

場面もあったかも知れません。

2014年5月、山本潤子さんは

「声の不調」を理由に

無期限の音楽活動休止を発表され、

現在も活動の再開は

発表されていません。

いつの日か山本潤子さんが

完全復活される日を待ちましょう。

最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。

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