弘田三枝子を突然襲った衝撃的な出来事に一同驚愕…『人形の家』がヒットしたポップスの女王のある中毒と戦った半生が衝撃的すぎた…

弘田三枝子を突然襲った衝撃的な出来事に一同驚愕…『人形の家』がヒットしたポップスの女王のある中毒と戦った半生が衝撃的すぎた…

みなさん、こんにちは。

1960年代にアメリカンポップスのカバー曲で

次々にヒット曲を連発し、ポップスの女王といわれ

紅白歌合戦に、9回出場したという記録を持つ

国民的女性歌手の、弘田三枝子さん。

弘田三枝子さんは、2020年7月21日

73歳で亡くなってしまいました。

今回は、弘田三枝子さんの死因について

ご紹介すると共に

弘田三枝子さんの、経歴や結婚などを

振り返っていきたいと思います。

まずは、弘田三枝子さんのプロフィールからご紹介します。

名前:弘田三枝子(ひろたみえこ)

本名:竹永三枝子

生年月日:1947年2月5日

出身地:東京都世田谷区

所属事務所によると、弘田三枝子さんは、

20日に千葉県内の自宅で倒れており

病院に搬送したが、21日に亡くなったとのことです。

倒れる前日まで変わりなく、元気だったそうです。

死因は、心不全だったそうです。

紅白歌合戦に9年連続で出場するなど

昭和を代表する歌手でしたが

70代での訃報となってしまいました。

SNSには往年の弘田さんのファンが

追悼のコメントをたくさん書き込んでいるようです。

それでは、弘田三枝子さんの経歴を振り返っていきます。

弘田三枝子さん、世田谷区立三宿小学校に在学中に

劇団こまどりに入団しました。

その後、駒沢学園女子中学校の1年生頃から本格的に

進駐軍キャンプで、ポップスやジャズなどを歌っていたそうです。

14歳だった1961年に和「製ブレンダ・リー」の愛称で

「子供ぢゃないの」でデビューを果たしました。

よく歳の1962年には、

コニーフランシスのカバー「ヴァケイション」が20万枚のヒットを記録。

「ミコ」の愛称で親しまれ、

10代らしからぬパンチの効いた歌声で

瞬く間に音楽シーンを圧巻させました。

1968年には、アメリカ土産として、

自身初のR&Bのライブを

サンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作しています。

しかし、当時、R&Bというジャンルは世間に浸透しておらず

新しいジャンルということもあり、

1966年ごろから、売れなくなっていきました。

しかし、1969年にリリースした「人形の家」がオリコンチャートで

1位となり、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞し

見事、カムバックしたのです。

『すてきな16才』、『ヴァケイション』などの

洋楽カバーをはじめ、

アニメ『ジャングル大帝』の主題歌や、

レナウンのCMソングなども歌っていたので

覚えている人もいるのではないでしょうか?

サザンオールスターズの桑田佳祐さんも

弘田三枝子さんの影響を受けたとされ、

その歌唱力は評価は高く『ポップス界の女王』とも言われていました。

その後、1970年に弘田三枝子さんは、

ダイエットで大幅に減量に成功しており

この経験を踏まえた「ミコのカロリーBOOK」を出版します。

この本は、150万部を超える大ベストセラーとなり

ダイエット本の先駆けと称されています。

その後は、映画6作品に出演するなど、女優としても

活動していた時期があったそうです。

この後も、歌手や女優として精力的に活動を行なってきた

弘田三枝子さんですが、

ダイエットを成功させたきっかけからなのか

わかりませんが、整形にハマり、大きく顔が変わり

マイケルジャクソンと呼ばれるほどになっていました。

デビュー前は、少しぽっちゃりとしていましたが

ダイエットを成功させてからは、明らかに顔が変わっています。

しかしこの時、弘田三枝子さんは、

ダイエットによる変化と言っており

整形については、否定していました。

この時、身長160cmに対して、体重が38kgしかなかったそうです。

弘田三枝子さんは、自身の体型作りについて

「太るという意識をやめ、いっぱい食べてもあなたは美しい。」と

自分に言い続けることが大切と語っていました。

ですが、度重なる整形の影響のせいか

年齢に対して、顔のシワが少なく、

かなり顔の表情が引きつっていたり

唇がかなり分厚く変化していたりと、

間違いなく整形していることが分かります。

ダイエットの先駆者とも言われる方ですから、

美の追求は凄まじいものだったのでしょう。

ですが、当時はまだ美容整形も不完全なもので

整形手術の影響により、顔面が崩壊してしまったのでした。

また、弘田三枝子さんは、整形だけでなく

結婚や、恋愛に関してもかなり尖った経験をされています。

それは、結婚している男性と不倫関係にあり、

相手の妻に刺される事件があったのです。

若い頃から歌手として大活躍していた弘田三枝子さんですが

1975年ごろに、妻子あるギター奏者・杉本喜代志さんと

仕事を通じて知り合い

その後、親密な関係になったそうです。

そして同年のクリスマスに弘田三枝子さんの

自宅で過ごしていた2人でしたが

その時に、杉本さんが妻子持ちであることがわかります。

杉本さんの妻も、杉本さんが不倫していることを知り

「夫と別れて」と弘田三枝子さんに電話をかけたそうです。

ですが、その後も不倫関係は続きました。

1976年1月に、杉本さんの妻は直接、

弘田三枝子さんに会いにいき

「別れてほしい」と頼みましたが、

弘田三枝子さんが、その申し入れを

聞き入れなかった結果、杉本さんの妻に、

果物ナイフで、刺されてしまったのです。

幸い、7針縫う全治10日の怪我で済みましたが

あと1cm奥に刺さっていれば、

腎臓に達し、命に関わる危険があったそうです。

そして、弘田三枝子さんは、

退院後、不倫相手の杉本喜代志さんと別れました。

その後、弘田三枝子さんは、

活動を休止して、渡米していましたが

また妻子ある男性に惹かれて、恋に落ちてしまいます。

その男性は、超有名航空会社の日本人の営業部長で、

過去に4度の結婚歴があり

三人の子供の父でもありました。

そして、その男性は、

「妻と別れるから結婚しよう。」と弘田三枝子さんにプロポーズ。

正式に離婚が成立していない中、

2人は1978年9月に挙式をしたのです。

またこの時、すでに弘田三枝子さんのお腹には子供がおり

翌年の1979年2月に娘を出産しました。

しかしこの時にもまだ離婚は成立しておらず

2人は事実婚状態でした。

その後もなかなか離婚しない夫に

痺れをきらした弘田三枝子さんは

別れて帰国をしました。

またこの時の男性との間にできた娘さんですが

詳しい情報はなく、「えりか」という名前だけが判明しています。

プライベートでは2度の不倫からの事実婚、

娘を出産するも、生涯独身だったようです。
 
そんな弘田三枝子さんは2020年7月に心不全で死去していますが、

歌の上手さは、昭和の女性歌手の中で、1番と言われるほどで

現在も、YouTubeなどで弘田三枝子さんのヒット曲を聴くことができますので

これからも、彼女が残した歌はこれからも歌い継がれていくでしょう。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

最後までご視聴いただきありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。

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