村田英雄の両足切断…病魔と戦った晩年に涙腺崩壊…「ムッチー」の愛称で有名な歌手のビートたけしに放ったとんでもない言葉に驚きを隠せない…

村田英雄の両足切断…病魔と戦った晩年に涙腺崩壊…「ムッチー」の愛称で有名な歌手のビートたけしに放ったとんでもない言葉に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは。

「王将」「人生劇場」など男の人生を豪快に歌って

人気を博した「村田先生」こと村田英雄(むらたひでお)さん。

「ムッチー」という愛称でも親しまれましたね。

ムッチーブームのきっかけになった、

たけしさんのラジオ番組とはどんなものだったのでしょうか。

また、プロフィールをはじめ

この世を去ることとなった原因や

ライバルといわれた三波春夫さんとの関係、

息子など家族のこと、さらに糖尿病による

足切断についてまとめました。

まずは、村田英雄さんのプロフィールを紹介します。

・芸名 村田英雄(本名 梶山勇)

・生年月日 1929年1月17日

・カテゴリー 浪曲師 演歌歌手 俳優

・活動期間 1958年~2002年

村田英雄さんの生い立ちですが、

1929年(公称)、福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)で、

広沢仙遊さんと矢野ツタ子さんの子供として誕生。

その後、ツタ子さんの姉弟子である

出利葉スミ子さんの養子になります。

スミ子さんは梶山春雄さんという男性と結婚し、

一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越しました。

幼少時から浪曲界に入り、

1947年に少女浪曲師の吉田伊万里

(本名・野口ユイ子)さんと結婚しています。

この最初の結婚で、少なくとも息子を二人と

娘を一人もうけたようですが、

子供たちについての詳細はわかりません。

62歳の時にユイ子さんに先立たれ、

2000年に石田須眞子さんと結婚式を挙げています。

次にたけしさんとのラジオ番組について紹介します。

たけしさんがまだ「世界のキタノ」ではなく、

ツービートで毒舌漫才をしていた頃のことです。

『ビートたけしのオールナイトニッポン』で

数々の伝説のギャグが生まれました。

それらは村田英雄さんの豪快なキャラクターや

トンチンカンな言動をネタにしたもの。

これが演歌になじみのない若いリスナーに大受けして、

ムッチーブームが起こります。

村田英雄さんにまつわる豪快な逸話とは、

例えばこんなものでした。

海外旅行の際、書類の「sex(性別)」

の欄に「週2回」と書いた。

力うどん(ちからうどん)を

「かうどんをくれ」と注文した。

ムッチーブームのきっかけとなった

たけしさんのラジオ番組について、

水道橋博士や松村邦洋さんらが対談しています。

水道橋「でも、聴いているほうはドキドキしましたよ。

歌謡界の大御所をイジるなんてタブーだったじゃないですか。

それなのにコーナーまで作って、大御所をイジり倒した」

松村「村田先生もさすがでしたね。

あの番組がきっかけでムッチーブームが起こると、

ついにご本人が番組に登場。

『たけし君、ガッハッハ』と全てを笑い飛ばした」

水道橋「あれには『大御所とはこういうものか。

さすが懐が深い』と、我々リスナーも感動しました」

ネタの大半は創作といわれていますが、

村田英雄さんならありそうというものばかり。

たけしさんが歌を歌うことについて説教したこともあるようです。

「いいか、たけちゃん。

いや、たけし。

お前は漫才師だ。

俺は歌手だ。

高田、お前は作家だ。

お互い仕事のジャングルが違うんだ。

俺のジャングル入って来るな。」

ジャンルとジャングルを混同したのですね。

高田文夫さんによると、このエピソードは本当の話だそうです。

次に、村田英雄さんの楽曲、

「王将」「無法松の一生」について紹介します。

「王将」は村田英雄さん史上最大のヒット曲となりました。

上記にも売上枚数を書きましたが、

発売当時で150万枚、累計で300万枚を記録しています。

この楽曲で村田英雄さんの人気を

決定づけたと言われています。

このシングルがリリースされるまで

村田英雄さんはヒットシングルが無く、

ヒット曲が必要となっていました。

当時の村田英雄さんのディレクターが

作詞家の西条八十宅を訪れたが

回手貰う事が出来ず、

後に村田英雄さん自身が家に通い詰める形で

やっと作詞をして貰う事が出来た作品です。

その後、作曲家の船村徹さんが

曲を付けて完成しました。

この曲にはモデルがいて

関西を拠点に活動していた

棋士の坂田三吉氏をモデルにしたと言うことです。

結果として王将=村田英雄という

イメージがつく楽曲となりました。

「無法松の一生」は、1958年7月に

リリースされた楽曲で有り、

元々村田英雄さんは浪曲師で有り、

口上を聞いた古賀政男さんが村田英雄さんを

歌手として売り出しました。

村田英雄さんの代表曲のひとつとなります。

また、村田英雄さんと三波春夫さんはライバル関係だった

という噂もあります。

「お客様は神様です」のフレーズでおなじみの三波春夫さん。

村田英雄さんの時代は、

「お富さん」の春日八郎さん、

「哀愁列車」の三橋美智也さん、

「世界の国からこんにちは」の三波春夫さん

といった戦後の日本歌謡界の

花形スターたちがしのぎを削っていました。

とりわけ同じ浪曲出身の三波春夫さんとは

ライバルといわれており、

不仲説もささやかれたようです。

しかし実際には、村田英雄さんは三波春夫さんを

先輩として尊敬していたとのこと。

もちろん良きライバルとして

お互いに意識していた可能性はありますが、

犬猿の仲ではなかったようです。

また、私生活は酒豪で、肉好きで、大の野菜嫌いという

食生活がたたり、30代半ばから

糖尿病に悩まされてきた村田英雄さん。

1995年頃から合併症が深刻になり、

その年の8月には急性心筋梗塞、

欝血性心不全で意識不明となる事態に。

1996年には右ひざ下を切断しました。

閉塞性動脈硬化症による足切断でした。

2000年には左足も悪化し、左ひざ下を切断。

完全に車椅子生活となりました。

「オレに引退という文字はない。」

こう言い続けてきた村田英雄さんですが、

2002年6月13日、息を引き取りました。

肺炎と発表されました。

1973年に糖尿病を患い1年間の活動休止を

余儀なくされてしまったのをきっかけに

糖尿病を抱えながらの歌手活動となりました。

糖尿病は、体内で糖を分解するための

インスリンが分泌されているわけですが、

体内に糖が増えすぎてしまい分解できなくなる病気です。

発症当初は自覚症状がないので進行していきます。

疲労感や食事をしていないのに、痩せる。

のどの渇きなどの症状がで始めると

相当進んでいると言う事になります。

そうなった場合は医療機関を受診して

医師の指示を仰ぎながら糖を

コントロールして行く必要があります。

一度発症してしまうと、完治することは無く

一生を掛けて付き合っていく病気となります。

村田英雄さんも発症後足を切断した

という話も聞いたことがありますし、

人によっては失明するケースもあります。

年齢は関係なく誰でも掛る可能性がある病気です。

糖尿病の話はここまでとして

村田英雄さんの歌手としての評価について

書いていきます。

若かりし頃浪曲師として第6回読売賞新作浪曲競演会で

優勝した事と2004年5月に記念館をオープンしたので

地元の佐賀県では相当な評価を

得ていたと考えて良いと思います。

73歳でした。

病魔を何度も乗り越え、

義足という不自由な身体になっても

再起を果たした村田英雄さん。

昭和の歌謡史を代表する大物スターが

消えてしまうのは、なんともさびしいものですね。

いかがでしたでしょうか。

村田英雄=演歌歌手というイメージ

を抱いていましたが、スタートは浪曲師、

その後見いだされて演歌歌手に転身しました。

王将がヒット曲ですが、

若い頃から糖尿病を患っており

晩年色々な合併症を併発して

歌手活動も危ぶまれる展開となりました。

少しどこかが痛くても、

行動を制限したくなる物なので

糖尿病を抱えていたと言う事は

こちらが思っているより相当厳しい歌手活動を

強いられた可能性が高く、

辛い中での歌手活動とも言えます。

昭和の大スターで有り、

もうこのようなタイプの歌手は出てこないと思われますよね。

最後まで、動画をご視聴いただきありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。

You May Also Like