江利チエミを突如襲った病魔の正体…身内に次々起こった不幸に涙腺崩壊…「三人娘」として一世を風靡した歌手の元夫・高倉健との本当の離婚理由に驚きを隠せない…

江利チエミを突如襲った病魔の正体…身内に次々起こった不幸に涙腺崩壊…「三人娘」として一世を風靡した歌手の元夫・高倉健との本当の離婚理由に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは。

今回取り上げるのは、美空ひばりさんらと

「三人娘」として一世を風靡し、

高倉健さんとの結婚でも知られる

歌手の江利チエミさんです。

江利チエミさんは、戦後の時代から昭和後半にかけて

活躍した歌手で、美空ひばりさんらとともに

「三人娘」と呼ばれ社会現象になるほどの

ブームを起こしました。
 
また、女優としても活躍し、

映画版やドラマ版の「サザエさん」の

主人公・サザエさん役がよく知られています。
 
国民的人気俳優であった高倉健さんの

元妻としても知られています。

そんな江利チエミさんの波乱に満ちたその生涯、

異父姉や異母弟ら家族、

元旦那の高倉健さんとの子供や離婚原因、

死因について調査してみました。

江利チエミさんの基本プロフィールは

次のとおりです。

本名:久保智恵美

生年月日:1937年1月11日

出身地:東京都台東区下谷

まず経歴についてですが、

江利チエミさんは、クラリネット奏者、ピアノ奏者、

三味線奏者として活躍した

音楽家の父・久保益雄さんと、

東京少女歌劇出身で、喜劇女優として

浅草軽演劇などで活躍した母・谷崎歳子さんとの間に

3人の兄を持つ末娘として生まれました。
 
江利チエミさんは12歳の時に、

家族の生活を支えるために歌手として活動を始め、

「エリー」という芸名でアメリカ軍進駐軍の

キャンプを回ってジャズを歌い、

進駐軍のアイドル的存在となりました。

江利チエミさんは、14歳の時にキングレコードの

オーディションに合格し、15歳になったばかりの

1952年1月23日に、

「テネシーワルツ/家へおいでよ」をリリースして

レコードデビューを果たしました。
 
このレコードは23万枚の大ヒットを記録し、

さらにこのデビュー年には映画

「猛獣使いの少女」に主演し、

「美空ひばり以来の天才少女」と評されました。
 
1953年には紅白歌合戦への出場も果たし、

その後、1968年まで計16回の出場を果たしています。

江利チエミさんはジャズやラテン、

ポップスなど様々なジャンルの海外の名曲を見事に歌いこなし、

それまであまり日本人に馴染みのなかった

西洋音楽ブームの火付け役となりました。
 
瞬く間に人気歌手となった江利チエミさんは、

メジャーデビュー翌年の1953年には招待を受けて渡米し、

ロサンゼルスやハワイでの公演も成功させています。
 
アメリカからの帰国後、江利ちえみさんは、

自身と同じ1937年生まれの2人の人気歌手、

美空ひばりさんと雪村いづみさんと共に

「三人娘」と呼ばれるようになって

一大ブームを巻き起こし、

1955年の「ジャンケン娘」、

1956年の「ロマンス娘」、

1957年の「大当り三色娘」、

1964年の「ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば」と、

3人の主演映画が次々と公開されるなど、

一世を風靡しました。

江利チエミさんは女優としても人気を博し、

1956年に第一作が公開された映画

「サザエさん」シリーズでは主役のサザエさんを演じて

大ヒットを記録し、

以降1961年までに10シリーズが公開されました。
 
また、1965年から1967年にかけて

TBSで放送されたテレビドラマ版でも

サザエさん役を務め、舞台版でも主演するなど

江利チエミさん最大の当たり役となりました。
 
「唄祭りロマンス道中」、「ジャズ娘誕生」、

「チエミの婦人靴」などに主演した他、

演技の面でも評価され、京都市民映画祭の

優秀助演女優賞を受賞した

1962年公開の映画「ちいさこべ」を

はじめとして「ふんどし医者」など、

生涯を通じて約50本の映画に出演されています。
 
舞台女優としても活躍し、

1963年には日本において初の

ブロードウェイ・ミュージカル公演となる

東京宝塚劇場での「マイ・フェア・レディ」に主演し、

テアトロン賞(東京演劇記者会主催の演劇賞)、

毎日演劇賞、ゴーデンアロー賞に輝いています。
 
舞台での代表作としては、「アニーよ銃をとれ」、

「お染久松」(芸術祭奨励賞受賞)、「芸者春駒」、

「白狐の恋」(芸術祭優秀賞受賞)、

「春香伝」、「花木蘭」などがあります。

歌手、女優として一時代を築いた

江利チエミさんでしたが、その晩年は

波乱に満ちたものでした。
 
詳しくは後述しますが、江利チエミさんは

東映映画で共演した俳優の高倉健さんと1959年に結婚し、

1962年には子供を妊娠したものの、

重度の妊娠高血圧症候群により

中絶を余儀なくされています。
 
さらに、3人の兄のうち2人が相次いで若くして亡くなり、

自らの子供のように可愛がっていた甥っ子も

電車事故で不慮の死を遂げます。

異父姉とのトラブルが原因で旦那・高倉健さんと

離婚する事になり、体調面でもポリープによる

声帯の手術や自宅を火災で失うなどの

不幸が重なりました。
 
そして、江利チエミさんは1982年2月13日に

45歳の若さで亡くなっています。

江利チエミさんは45歳という若さで

突然に亡くなりましたが、その死因は脳卒中と、

吐瀉物が気管に入ったのが原因となった

窒息と発表されています。
 
江利チエミさんの死因については、

数日前から風邪を引いていて体調が悪かったにも関わらず、

ウイスキーの牛乳割りを飲み、

暖房をつけたままの部屋で風邪薬を飲んで

寝入ってしまった事が原因になったのでは

とも言われています。
 
江利チエミさんのお墓は東京都世田谷区瀬田一丁目の

浄土宗法徳寺にあり、

現在もファンが訪れているという事です。

江利チエミさんと高倉健さんの出会いのきっかけは、

1956年にゲスト出演した東映映画

「恐怖の空中殺人」での共演をきっかけに

高倉健さんと知り合い、

1959年2月16日の高倉健さんの28歳の誕生日に

正式に結婚されています。
 
江利チエミさんは高倉健さんとの結婚を機に、

一時は家庭に入るとして芸能活動を辞めていますが、

結婚から1年後の1960年には早くも

芸能界に本格復帰されています。

江利チエミさんと元旦那の高倉健さんは、

結婚12年目の1971年9月3日に離婚しています。
 
江利チエミさんと元旦那の高倉健さんの離婚の原因は、

前述の通り江利チエミさんの異父姉よし子による

策謀でした。
 
江利チエミさんは高倉健さんと別居に追い込まれましたが、

さらに、異父姉よし子によって

莫大な借金を背負うようになると、

「これ以上高倉健さんに迷惑をかけられない」と

考えるようになり自ら離婚を申し入れています。
 
しかし、高倉健さんは離婚後も江利チエミさんの事を

想い続けていたそうで、

撮影の合間に楽屋で江利チエミさんの代表曲

「テネシー・ワルツ」を黙って1人聴いている事が

よくあったのだそうです。
 
また、ある関係者は離婚直後に高倉健さん宛に

江利チエミさんから電話がかかってきた場面を

目撃しています。

この方によると、江利チエミさんの方が

「健さん、もう一度、一緒になれないかしら」と

離婚を撤回したいと申し入れてきたそうです。

しかし、高倉健さんは江利チエミさんに諭すように

「お前がいくら謝っても…。もっと…もっと早くに、

なんでそう考えなかったんだ。

こうなった以上はもう一緒になれない。戻れない」と、

自身もとても辛そうに答えられていたというです。
 
離婚からちょうど10年後の

1982年2月に江利チエミさんは45歳の若さで

亡くなっていますが、高倉健さんは江利チエミさんの

死を非常に悲しみ、

離婚した事を悔やんでいたという逸話もあります。
 
高倉健さんの近しい関係者によれば、

江利チエミさんが亡くなった時、

高倉健さんは葬儀には出席しなかったものの

本名の「小田剛一」の名前で献花し

会場の外で手を合わせてたそうです。

また、江利チエミさんの自宅の裏手に回って

1時間以上も手を合わせ、

そのすぐ後には真冬の2月だったにも関わらず、

比叡山へと登り、飯室不動堂で滝行をされたそうです。
 
高倉健さんは、江利チエミさんの死後も

生涯独身を貫き、命日にはからなず墓参りをして、

花を供え、自身の名前を記した

線香をたむけ続けていたそうです。

最後までご視聴ありがとうございました。

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それでは、また。

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