沖雅也の30年の時を超え発覚した亡くなった真相…遺書内容に涙腺崩壊…「太陽にほえろ!」でスターとなった俳優の同性愛疑惑…恋人の正体に一同驚愕…
みなさんこんにちは。
「太陽にほえろ!」でクールな刑事役を演じ、
爆発的な人気を博すと、
続く「俺たちは天使だ!」では、
陽気なキザ男の役をコミカルに演じ、
すっかり、お茶の間の人気者となられた
沖雅也(おき まさや)さん。
そんな沖さんですが、
若い頃はホモバーで働いていたり、
実は躁鬱であったり、
最後は飛び降り自殺をした
という噂があります。
今回は沖さんの活躍や
その噂の真相について
まとめてみました。
ではまず、沖さんの
プロフィールをみてみましょう。
本名 日景 城児(ひかげじょうじ)
出生名 楠 城児(くすのきじょうじ)
生年月日 1952年6月12日
没年月日 1983年6月28日(31歳没)
出生地 日本の旗 日本 大分県別府市
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区西新宿
(京王プラザホテル)
芸名の「沖雅也」の「雅」は、
当時の「日活」社長、
堀雅彦の一字から
名付けられたそうです。
沖さんは、お父さんが石油卸売業、
おじいさんが病院経営者という、
裕福な家庭に生まれるのですが、
その後、お父さんが事業に失敗し、
大分市に転居されると、
その後は市内を転々とする生活を送ります。
そして、1966年12月、
中学2年生の時、
両親が離婚し、
沖さんはお父さんに引き取られるのですが、
うまくいかず、
1968年1月4日、中学校を卒業前に、
10万円とバッグひとつを持って家出し、
上京しました。
当日は、ホテルニューオータニへ宿泊するも、
翌日からは氏名と年齢を偽り、
住み込みで中華そば屋で働き始めます。
しかし、ほどなくして辞めると、その後は、
カステラ工場の配送員の助手ほか、
職を転々とし、
最終的には、生きるために仕方なく、
自身の美形を活かして、
池袋にあった売り専の
ホモバー「げれえ」で
バイトを始められたのでした。
この頃、お客からスカウトされて
ファッション誌のモデルになるも、
単発的な仕事だったため、
食事にも困るほど生活は苦しく、
ホモバーを続けながら
モデル業をこなしていたそうです。
そんなある日のこと、沖さんは、
お店の常連客だった日景忠男さんに、
週に一回会えば月15万円あげる
と言われると、なんと、
お金のため、日景さんと
愛人契約を交わします。
その後、詳細は分かりませんが、
浅草のホモバーに移り、
そこのママ(もちろん男)と愛人関係になり、
店を手伝って8万円のお給料を
もらっていたのですが、
ママに新しい恋人ができたことで別れると、
その頃あたりから、
日景さんとの関係が深まり、
同棲をスタートしました。
すると、同年、
沖さんが働いていたホモバーに
お客として訪れた、
古賀誠一さん
(現・オスカープロモーション代表取締役社長)
からスカウトされ、
「日活」関係者を紹介してもらうと、
日活映画「ある少女の告白・純潔」で
映画デビューしました。
翌年の1969年には、
早くも「エランドール新人賞」を
受賞されると、
さまざまな日活映画に
出演していましたが、
1971年、映画「八月の濡れた砂」で
主演に抜擢されるのですが、
撮影開始直後に、
オートバイの事故で
鎖骨を骨折する大ケガをしてしまい、
そのことが原因で、
降板を余儀なくされてしまったのでした。
それでも、同年、
テレビドラマ「さぼてんとマシュマロ」で、
主演に抜擢されると、
たちまちアイドル的な人気を博し、
続く、テレビドラマ「金メダルへのターン!」
「キイハンター」などでも、
準レギュラーとして出演されると、
1973年には、
テレビ時代劇「必殺仕置人」で、
「棺桶の錠」役に抜擢されて、
山崎努さん、藤田まことさんら、
大御所との共演でますます注目を集め、
その後も、1974年「ふりむくな鶴吉」
1975年「必殺仕置屋稼業」
など、立て続けに時代劇に出演され、
大きな飛躍を遂げられたのでした。
1979年9月には、
人気テレビドラマ「太陽にほえろ!」の、
プロデューサー岡田晋吉さんに、
「必殺仕置屋稼業」での演技を見初められ、
「太陽にほえろ!」で、
「スコッチ刑事」こと、
滝隆一役に抜擢されると、
たちまち爆発的な人気になりました。
実は、「太陽にほえろ!」の
チームワークはとても良好で、
メンバー同士の対立が
全く考えられない状況だったことから、
マンネリ化を危惧した
プロデューサーの岡田さんが、
「七曲署に波風を立てる役」として、
冷酷非道の、「スコッチ刑事」を
登場させることにしたのですが、
このような難しい役を新人俳優が
演じるのは無理だと考え、
沖さんに拝み倒して、
沖さんが出演することになったそうで、
沖さんは、そんな岡田さんの
期待に応えるため、
撮影現場では、みんなから遠く離れて、
一人ポツンと役作りに励まれたのでした。
ただ、当時、沖さんは、
半年以上のレギュラー出演は
しないスタンスだったため、
半年後の1977年3月には、
山田署へ転勤という形で
「太陽にほえろ!」を降板しました。
そして、1978年には、
「大追跡」「姿三四郎」と
立て続けに出演されると、
1979年には、
アクション・コメディドラマ
「俺たちは天使だ!」で、
沖さん本来のキャラクターである、
ちょっとドジで、
明るい性格を前面に打ち出した、
麻生雅人役でも、
お茶の間の人気を博したのでした。
そして、1980年3月には、
裏番組「3年B組金八先生」に押され、
視聴率が低下してきた「太陽にほえろ!」に、
再び沖さんがスコッチ刑事役で復帰。
実は、沖さんは
あまり乗り気ではなかったそうですが、
岡田プロデューサーからの依頼だったため、
再びレギュラーを
務められることになったそうで、
今度は、クールな刑事ではなく、
人間味のある刑事を演じたいと希望され、
冷酷非道だった「スコッチ刑事」が、
七曲署の刑事達に囲まれ、
次第に人間らしさを取り戻していく、
というストーリーになったのだそうです。
その後も沖さんは、1981年には、
「江戸の朝焼け」で主演を務められるほか、
レギュラー番組をいくつも抱える
超売れっ子となったのですが、
その一方で、過密スケジュールから
精神的に不安定になっていき、
同年4月には、東名高速道路で
キャデラックを運転中に
側壁に激突する事故が起きました。
幸い、ケガは軽く、
足首の捻挫ですんだのですが、
この時、「そううつ病」とも診断され、
2週間入院されました。
退院後は、精神安定剤を服用しながら、
同年6月1日に俳優業に復帰されるも、
今度は、仕事の無理がたたってか、
「肝臓炎」が発症し、
薬の副作用から、
体重が90キロにもなってしまい、
復帰からたったの3ヶ月で
長期間の休養を
余儀なくされてしまいます。
こうして、沖さんは、
この休養中でのアメリカ旅行の際、
「太陽にほえろ!」の降板を
決意されたそうで、
あまりみっともない格好で
番組を去りたくないので、
「お正月は1日1食、おもちも食べませんでした。」
と、必死の減量で、
なんとか80キロを
切るところまでこぎつけると、
「病気のため、吐血して死ぬ」という、
壮絶な最期を演じて降板されたのでした。
ちなみに、殉職ではなく、
病死というのは、
沖さんがアメリカ旅行中に
思いついたアイディアだったそうで、
沖さんは、その時のことを、
「役者として、やる気がなくなったんです…。
役に行き詰まってきたんです。
このまま画面に出ないで
消える方法もあったのですが、
キチッとケジメをつけたい
と思って僕の話を作っていただきました。
いろいろありました。
精神的ストレスがたまり、
ノイローゼのようになったこともありますが、
今は肉体、心とも快調です。
つまっていたものがふっ切れた感じで、
すがすがしい気持ちです。」
と、明かされていました。
こうして、「太陽にほえろ!」を
降板したことで、
心身ともに快調になった
とおっしゃっていた沖さんですが、
1983年6月28日、
「新宿京王プラザホテル」にチェックインされ、
馴染みのホテトル嬢を呼び、
性交後、彼女に、
日景忠男さん宛ての一通の手紙を
渡してほしいと頼まれると、
その後、黄色いジャージ姿のまま、
最上階(47階)に上がり、
なんと、飛び降り自殺しました。
そのホテトル嬢は
沖さんがこれまで
何度も指名したお気に入りで、
日景さんと一緒に住んでいた
マンションに来てもらったことも
あった仲だったそうです。
ちなみに、警備員の話によると、
沖さんは屋上で一服していたそうですが、
目を離した隙にフェンスをよじ登り、
「危ない!」と声を掛けた時には、
既にフェンスを
乗り越える寸前だったそうで、
同ビル7階の屋上プールに
落ちて亡くなったのでした。
警備員は、沖さんとは
分からなかったそうです。
そして、沖さんから
手紙を預かっていたホテトル嬢は、
このニュースを見て、
慌てて日景さんに手紙を届けたそうで、
そこには、
「ホテルに迎えに来てほしい」
と、書いてあったそうですが、
沖さんが宿泊していた
ホテルの部屋からは、
「今・・・
プラザホテル様へ
大変申し分けなくおゆるし下さいませ。
つかこうへい様 あなたの名、
つかを使いし僕を
ゆるせるものならおゆるし下さい。
人は病む。いつかは老いる。
死を免れることはできない。
若さも、健康も、生きていることも、
どんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、
結局何かを求めていることに
ほかならない。
老いと病と死とを超えた、
人間の苦悩のすべてを、
離れた境地を求めることが
正しいものを求めることと思うが、
今の私は誤ったものの方を求めている者。」
と書かれており、
便箋の裏には、
「おやじ 涅槃で まってる 沖雅也」
と、ホテル備え付けの便箋一枚に
書かれている遺書が
見つかったのでした。
(沖さんは、かつて演技指導を受けた
つかこうへいさんの名前で、
ホテルにチェックインしていました。)
この遺書に書かれている、
「おやじ」というのは、
日景忠男さんのことで、
1975年に実のお父さんが亡くなると、
日景さんと養子縁組をされているのですが、
日本では同性同士の結婚が
認められていないため、
「養子縁組=同性婚」の形をとったようです。
そのため、沖さんが自殺した当初は、
日景さんとの愛憎関係のもつれが
原因だったと報じられたのですが、
実は、この同性愛的な感情は
日景さんの一方的なもので、
沖さんは、女性が好きな、
至って一般的な男性で、
生活のため、やむなく
といった感じだったとか。
ただ、嫉妬深く、
何かと束縛する日景さんに
嫌気が差して、
日景さんの財布から
50万円を抜き取って家出し、
その後、「新宿京王プラザホテル」に
向かったと言われています。
一方、日景さんはというと、
沖さんからの手紙に、
「ホテルに迎えに来てほしい」
と書いてあったことから、
自殺する人間が迎えに来い
とは言わないだろうと考え、
沖さんが飛び降りる直前に
声を掛けたというガードマンに話を聞き、
「飛び降りたというより、
バルコニーの縁に座っていた沖に、
『何やってんだ』と声を掛けたら、
驚くような感じで振り向き、
バランスを崩して落ちた。」
と説明されたと、
30年以上親交のある知人に
話していたそうで、
自身の親族には、
沖の自殺は、事故みたいなものだった。
と、話していたというのです。
ただ、生前、沖さんは、
30歳を過ぎて醜く老いるのなら死を選ぶ
と、語っていたことが
あったことがあったほか、
「遺影には『俺たちは天使だ!』の
写真を使って欲しい」と、
遺書に書いてあったこと、
「新宿京王プラザホテル」は、
半年も前から予約していたことから、
やはり、自殺だったと考えられています。
さて、いかがでしたでしょうか。
遺書には老いへの嫌悪を綴り、
美に対する執着には、
すさまじいものがあった沖さんですが、
飛び降りる時にも、
後ろ向きになって
背中から身を投げたようで、
顔は傷一つなく、
きれいなままだったそうです。
大人気俳優だった沖さんですが
壮絶な人生を送っており、
躁鬱や自殺との噂も
事実だったようですね。
沖さんのご冥福をお祈りいたします。
最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。
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それでは、また。