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渡哲也が最期に残した遺言に涙が零れ落ちた…「石原プロ」で活躍した人気俳優の息子の現在に驚きを隠せない…

渡哲也が最期に残した遺言に涙が零れ落ちた…「石原プロ」で活躍した人気俳優の息子の現在に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは

今回取り上げるのは、

俳優の渡 哲也(わたりてつや)さんです。

2020年の8月10日、

肺炎のため78歳で死去した渡さん。

外出時にも酸素吸入器が手放せなかった

渡さんでしたが、2017年からは

石原プロの相談取締役に再就任。

亡き石原裕次郎さんへの義理を

果たすかたちで最後まで

「石原プロ」の相談者と取締役を務めあげました。

日活で破格の扱いを受け、鳴り物入りで

映画デビューを果たしたものの、

渡さんの俳優人生は常に病魔と闘いでした。

そんな中、妻の俊子さんとの結婚生活は

どのようなものだったのでしょうか。

二人の馴れ初めから渡さんの経験した病や

闘病生活についても詳しく迫ってみました。

渡さんのプロフィールは次の通りです。

本名:渡瀬道彦

生年月日:1941年12月28日

出身地:兵庫県淡路島

身長:180cm

最終学歴:青山学院大学

所属事務所:石原プロモーション

経歴としては、1987年に石原裕次郎さんが

亡くなった後は二代目の社長に就任。

その後は社長として、会社の経営と

新人の育成を行いながら俳優としても

数々の作品に出演。

そして2011年に自らの健康と年齢を理由に

社長業からの退任を発表されました。

また、「社長在籍期間で石原裕次郎さんを

超える訳にはいかない」という理由もあったそうです。

渡哲也さんの義理堅く男らしい一面が

伝わってきますよね。

そんな一面は私生活でも垣間見る事が出来ます。

デビュー時からスター扱いだった事から

数多くのファンがいた渡哲也さん。

不倫や愛人も決して珍しくなかった昔の芸能界。

ですが渡哲也さんは、奥さん一筋で

他の女性に心変わりする事はありませんでした。

一般人の女性との間に息子を1人もうけた渡哲也さん。

芸能界の大御所の息子だと芸能界を目指しても

不思議ではありません。

実際、昔から芸能界では二世、

三世タレントも少なくないですよね。

ですが渡哲也さんの息子は一般人。

芸能界には進んでいません。

そのため渡哲也さんは息子について語る事は

殆どありません。

一般人の息子に迷惑をかけたくない、

という思いがそうさせているんだとか。

ですが息子さんは、ゼネコン大手の鹿島建設に

勤務していると言われているんです。

調べてみると、確かに鹿島建設には

渡瀬暁史さんという方が在籍しているようです。

「渡哲也」は芸名で本名は「渡瀬道彦」。

「渡瀬」と姓が同じ事から息子では、

と言われているのでしょう。

また、2014年に自宅を

バリアフリーにリフォームした渡哲也さん。

この時、工事を仕切っていたのが息子なんだとか。

これらの情報から「渡哲也さんの息子は

鹿島建設に勤務している」と噂されているのだと思われます。

本当に鹿島建設に務めていれば

自宅のリフォームなんてお手の物。

きっと渡哲也さんの希望を全て取り入れ、

完璧なリフォームが行われた事でしょう。

なお、渡瀬暁史さんは2018年に営業部長に就任。

鹿島建設という超大手で

部長にまで上り詰めた実力と才能。

この事実も渡哲也さんの息子である

可能性を高めていると言えそうですね。

共に青山学院大学の出身である

渡哲也さんとその妻。

そのためか息子さんも、小学校から大学まで

青山学院大学に通っていたそうです。

そして学生時代には、ラグビーやアメフトを

していたという肉体派。

父である渡哲也さんと言えば、

空手弐段で柔道初段という武道の達人。

青山学院大学の空手道部OBの会長も務めていました。

きっと息子さんの逞しい体も父親譲りなのでしょうね。

そして鹿島建設のアメフトチーム

「鹿島ディアーズ」にも1995年から2001年まで

渡瀬暁史さんの名前があります。

渡哲也さんが1971年に結婚している事を考えると

やはり渡瀬暁史さんが息子なのでしょう。

オールジャパンのメンバーも多く所属した

鹿島ディアーズ。

1995年に春季パールボウルトーナメントで

初優勝を飾り、1997年には日本一に輝いています。

まさに黄金期と言える時代に

鹿島ディアーズに所属していた渡瀬暁史さん。

きっとアメフト界では名の知れた選手だった事でしょう。

もしかすると渡哲也さんと肩を並べるほどの

知名度だったのかもしれませんね。

妻の俊子さんとの馴れ初めについて、

渡哲也さんの一目ぼれだったらしいです。

「青山学院大学」の一年後輩でした。

渡さんは、のちに日活からスカウトを受けるほどの

男前であり、学内でも常に女性の視線を

集めていたのではないかと推測できます。

そのなかで選ばれた俊子さんは、

非常に魅力のある女性だったのでしょう。

一般人ですので残されている写真は多くありませんが、

夫婦のツーショット写真を見る限り、

表情が豊かで魅力的な女性だということが

伝わってくるようです。

当時の俊子さんは、交際相手の渡さんが

のちの大スターになるとは夢にも思わなかったことでしょう。

渡さんは、学生時代のうちに

俊子さんの両親に挨拶を済ませていたそうです。

筋を通す姿勢が「男も惚れる男・渡哲也」らしい

エピソードですね。

その後に、渡さんは、青山学院大在学中(渡さんが四年の頃)に

日活からのスカウトで俳優デビューすることになりました。

俊子さんは突如として「渡瀬道彦(渡哲也さんの本名)」と

映画俳優「渡哲也」を同時に支えていくことになりましたが、

俊子さんは非常に頼れる女性だったとのエピソードが

数多く残されています。

渡さんも俊子さんには全面的な信頼を寄せており、

会見や取材で話す内容を相談していたという

エピソードも明かされています。

結婚の翌年に発症した病魔、そして女優とのゴシップにも

じっと耐えてきたという俊子さんは

とても前向きで明るい女性だったそうです。

渡さんは不倫に対しての持論で、

「世の中には本音と建て前があって、

もしバレなければあってもいい」

と語っていたそうです。

そのような破天荒な一面も持ち合わせていた

名優を支えるのはさぞ大変だったと推察できますね。

渡さんが亡くなったあとに明かされた数々のエピソードから、

常に夫に寄り添い、尽くしてきた良妻としての

俊子さんの存在が浮き彫りとなりました。

表に出ず、常に裏方に徹した俊子さんという存在が

「名優・渡哲也」の役者人生を支えてきたということが

よくわかり、その偉大さを知ることになりました。

女性人気が高かった渡哲也さんの人気が落ちることを

懸念した日活。

結婚はなかなか公表できなかったといいます。

1971年に二人きりでハワイで挙式を挙げ、

その後、俊子さんは妊娠。

そこからも二人の結婚生活はスムーズには

進みませんでした。

俊子さんの妊娠中、渡さんは

度重なる病魔に襲われています。

倒れた夫を献身的に看病した身重の俊子さんは

心身共に大きなストレスを抱えることになり、

何度も流産の危機があったといいます。

俊子さんは渡さんとの結婚後も表に出ることはなく、

仕事に関しても口出しすることなく

裏方に徹して病に伏せることが多かった渡さんを

支えていたといいます。

石原裕次郎さんも食べたとされる手作り減塩料理で

日本のトップ俳優・渡哲也の活躍を陰で

49年間と5カ月もの間、支え続けた俊子さん。

そして石原裕次郎さんの死去から、

石原プロを2011年まで支えてきた渡さん。

一度は退任したものの、2017年から亡くなる

2020年まで取締役として石原プロを支えてきた渡さんでしたが、

陰で俊子さんの献身的な支えがあったからこそ

ということがわかりました。

1971年3月にスタートした新婚生活でしたが

翌1972年には「葉間肋膜炎」を発症。

その後も、胸膜癒着症、肺感染症、

直腸がんの手術の結果、

人工肛門の生活を余儀なくされます。

さらに大腸がん、急性心筋梗塞、

肺気腫などの病魔に次々と襲われた渡さん。

2016年には肺気腫や喘息で酸素吸入器をつけて

生活するようになったといいます。

晩年には酸素吸入器と車椅子なくして生活ができなったようです。

突然の病によって大河ドラマ降板などの憂き目にあいました。

そして渡さんが病に倒れるたびに

方々へ頭を下げて回ったという俊子さんの姿があったといいます。

名優・渡哲也の活躍ばかりが印象に残る陰で、

面倒見のよさと奉仕の精神、

そして強い意志をもった女性である俊子さんの

生きざまを知ることができました。

さまざまな試練を乗り越え、最愛の妻・俊子さんに

看取られながら息を引き取ったそうです。

渡さんの母も「あなたには苦労のかけっぱなしで」

と涙ながらに感謝したというエピソードも残されています。

「どんな形でもいいから生きて欲しい」と

医師に懇願したという俊子さんの愛の深さには

思わず涙が出るほどです。

渡さんが残した名作の数々、映画やドラマ、

CMや時にバラエティ出演も果たしたその裏で、

知られざる二人の愛と闘病の日々があったのだと

知ることができました。

そんな渡さんが俊子さんに対し、遺言を残していました。

内容としては、

「自分の訃報は、葬儀など

すべてが終わるまで誰にも知らせるな」という

趣旨だったようです。

社葬も行わないよう言い置いていたそうで、

自身のことで人を巻き込みたくない、

という“男気”でした。

ファンのため、俳優としてのイメージを大切にする

姿勢を貫いた。男も女もほれる男、

かっこいいままで、渡さんは旅立ち、

天国で裕次郎さんと酒をくみかわしているはずでしょうね。

最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。

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それでは、また。
芸能LAB編集部