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竹脇無我の切ない晩年…病気との戦いに涙腺崩壊…「理想の夫No.1」と称された俳優の家族を襲った悲劇や理想とは裏腹な女性関係に驚きを隠せない…

竹脇無我の切ない晩年…病気との戦いに涙腺崩壊…「理想の夫No.1」と称された俳優の家族を襲った悲劇や理想とは裏腹な女性関係に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは。

映画『アンコ椿は恋の花』やドラマ『姿三四郎』など、

数々の作品で主演を務めた昭和のスター・

竹脇無我(たけわき むが)さん。

知性と品格を備えた二枚目俳優として、

「理想の夫No.1」と呼ばれていました。

しかし、

知的でさわやかな外面のイメージと

自身の内面とのギャップに苦しみ

精神を病むこともあったようです。

その苦悩の裏側には、

家族や仲間の不遇な死がありました。

彼を死に追いやったものとはいったい何だったのでしょうか。

今回は、竹脇無我さんについて

元アナウンサーである兄の義果(よしみ)さんと父・昌作さんの生涯、

結婚や離婚、

闘病の晩年を紹介します。

はじめに、竹脇無我さんのプロフィールです。

生年月日:1944年2月17日

死没:2011年8月21日

出身地:千葉県我孫子市

最終学歴:青山学院大学法学部

1960年に俳優としてデビューすると、

1965年『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たしました。

その後、テレビドラマ『姿三四郎』や

映画『人生劇場』に出演し、

クールな二枚目のイメージを確立させます。

時代劇やホームドラマなど、幅広く活躍。

全盛期には、知的で優しいイメージが定着し、

「理想の夫No.1」と呼ばれました。

無我さんは16歳で映画界入りしています。

というのも、

無我さんの家族は、当時不遇な運命により

苦境に立たされていました。

無我さんが俳優になったのは

苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すためだったそうです。

無我さんの兄・義果(よしみ)さんは、

神奈川県のラジオ関東でアナウンサーとして活動していました。

6人兄弟の長男として1940年に生まれ

2022年で82歳になります。

青山学院大学在学中にヨット部を設立し、

セーリング選手として活躍しました。

卒業後はアナウンサーとして

順調に活動していました。

しかし、1982年、

42歳で失明しアナウンサーを続けられなくなってしまいます。

当時は経済成長期の真っ只中。

深夜まで及ぶ仕事の影響で無理がたたり、

左目から徐々に視力が低下していったようです。

義果さんは絶望の中で

新たな道を見つけます。

裏方として無我さんの活動を支える仕事です。

義果さんは退職後、

無我さんの個人事務所である

「タケワキプロダクション」の設立に協力したのでした。

映画スターだった弟をテレビ業界でも活躍させようと、

マネージャーとして出演交渉に尽力。

無我さんの活躍の裏には、

こうした兄の努力があったのです。

また、セーリング選手としての才能も優れていた義果さん。

1996年には

「日本視覚障害者セーリング協会」を設立し、

翌年には世界選手権で銅メダルを獲得しました。

ハンディキャップにめげることなく、

自分の得意分野を活かせる活動へ、

意欲的に取り組んでいたのでしょう。

もう1つ、義果さんには、

六本木にある貸しギャラリー「タケワキスタジオ」のオーナーという顔もありました。

1977年の時点で

すでに失明の不安を感じていたため、

アナウンサー以外の道を模索。

その後、借金した末に、六本木へ貸しスタジオを建設。

左目にかすかな光が残るだけの状態になっても

頭に浮かんだ空間のイメージをもとに展示を企画しました。

2022年現在でも、

「タケワキスタジオ」は写真撮影の場として使われているようです。

無我さんの父はアナウンサーとして活躍した、竹脇昌作さんです。

義果さんは父を同じ道を選んだことになります。

幼少期から美声の持ち主で、

青山学院大学英文科を卒業後、

NHK初の全国アナウンサー採用試験に合格。

しかし入局の翌月、

養成期間中に解雇されてしまいます。

理由は、デモ活動に参加していた経歴があったため、

当時の特攻警察から

NHK側に解雇要請があったというのが有力な説です。

NHKからは解雇されたものの、

ラジオ番組「東京ダイヤル」のアナウンサーとして採用され、

軽快な語り口が爆発的人気を呼びます。

彼の語り口は「竹脇節」と呼ばれ、

「マダムキラーボイス」と評価されました。

しかし、激務によって精神を病んでしまいます。

そして1959年3月

「皇太子ご成婚」の放送を最後に、「東京ダイヤル」を降板。

療養生活に入りますが

「東京ダイヤル」の開始時刻には、ついつい興奮していたそうです。

また徐々に回復していくにつれ、「早く復帰したい」と口にし始めていました。

しかし、「東京ダイヤル」で後任を務めた芥川隆行さんの語りが好評で、

昌作さんは契約を打ち切られてしまいます。

さらに税金滞納を理由に、

自宅の土地と電話を差し押さえられるという悲劇に見舞われました。

度重なる不運と、家族を養うことへの重圧によって、精神は崩壊。

1959年11月9日

49歳の若さで自ら命を断ちました。

マスコミによって追い詰められた結果の死だったとされ、

「東京ダイヤル」は彼の死後、打ち切りとなっています。

次男の竹脇真理(まこと)さんは、

若くして病気で亡くなっています。

敬虔なクリスチャンだった真理さんは

麻布高校在学中の17歳の時、

都民教会で洗礼を受けました。

父の自死をきっかけに信仰心を深め、伝道者を志します。

しかし脳腫瘍を発病。

1年半の闘病を経て、わずか18歳で亡くなりました。

闘病中に、純粋な気持ちでつづった日記は

『勇ましく高尚な生涯-18歳で逝った若き信仰者の日記』として刊行されます。

限られた時間の中で、最後まで周囲の人々を思いやった

1人のクリスチャンの生涯を垣間見られる作品です。

一見、悲劇的な死を遂げた人が多い竹脇家。

しかし少なくとも真理さんは、

与えられた命を懸命に輝かせたといえるでしょう。

無我さんの活躍の背景には、

絶望の縁に立たされた家族を救おうという気持ちがあったのですね。

次に、竹脇無我さんの結婚と離婚についてみていきます。

1970年に、雅美さんという女性と結婚し、

2人の娘を授かった竹脇無我さん。

しかし、別居生活の末、1997年に離婚しています。

その後は内縁の妻と同居していたそうです。

十朱幸代さんや、土田早苗さんといった女優との不倫が報じられることもあった無我さん。

世間から求められる

「理想の竹脇無我」のイメージを保たなければならないプレッシャーに耐えきれず、

うつ病で自暴自棄になった結果、妻と別居に至り、不倫も犯した末に離婚したのでしょう。

無我さんは決して、

役柄のイメージ通りの誠実な人物ではなかったかもしれません。

竹脇無我さんは小脳出血で亡くなってしまいます。

2011年8月21日未明、

自宅で倒れていたところを搬送され、

集中治療室にて治療を受けます。

しかし、治療の甲斐もむなしく、

その日のうちにこの世を去りました。

67歳の若さでした。

突然この世を去ったように思えますが、

実は、晩年は

うつ病や糖尿病など

様々な病魔と戦っていたといいます。

世間から「理想の夫No.1」と呼ばれるほど

二枚目スターとしての地位を築いていた竹脇無我さん。

しかし、

そのイメージと実際の自分がかけ離れていたために、

常に緊張状態で過ごしていました。

そんな中、竹脇さんをさらに追い込む出来事が起こります。

1991年、親友だった俳優・松山英太郎さんが

食道がんにより亡くなったのです。

竹脇さんは当時、

心に芽生えた自殺願望を

アルコールで紛らわしていました。

やがて、うつ病を発症。

うつ症状が、彼のアルコール依存を加速させました。

今度は糖尿病と高血圧症を併発。

再入院を機に、うつ病の治療に専念することを決めた無我さんは

この後3年間もの闘病ののち、

無事に復帰を果たしました。

しかし、今度は2009年。

父のように慕っていた森茂久彌さんの死にショックを受け、

再度アルコール依存してしまいます。

断定はできませんが、

竹脇無我さんの小脳出血の原因は

過度な飲酒による高血圧にあったのでしょう。

多くのファンを魅了した二枚目スターの死としては、

あまりに悲惨な最期です。

『古畑任三郎』で知られる田村正和さんは

竹脇無我さんと交流のあった著名人の一人でした。

2人は松竹の同期で、

退社後も交流を続けていたそうです。

無我さんが家を建てた際、

田村さんの自宅にあった木を何本か移植させてもらったそうです。

この時移植した中に梅の木があったそうで、

無我さんは梅の実を収穫し、

梅干しにして田村さんに届けたというエピソードがあります。

田村さんは無我さんの死後

「徹子の部屋」へ出演し、

時おり声を詰まらせながら

梅の思い出を語りました。

2人は松竹出身の二枚目スター同士、

悩みや価値観を共有しやすかったのでしょう。

いかがでしたか。

竹脇無我さんは

歴史に名を残すほどの活躍をしていた一方で、

家族や俳優仲間の死を受け

うつ病やアルコール依存との戦いに

苦悩していたようです。

無我さんは決して、

役柄のイメージ通りの誠実な人物ではなかったかもしれません。

しかし、少なくとも

仕事に対して誠実であろうとするまじめな性格が、

自身を追い込んだことは確かです。

「二枚目スター」として一世を風靡した無我さん。

俳優とは、

世間から注目される一方で、

裏では常に自分の内面と向き合わなければならない

孤独な仕事なのかもしれません。

最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。

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それでは、また。
芸能LAB編集部

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