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美空ひばりが晩年 息子・加藤和也に託した遺書の内容に涙腺崩壊…『ひばり御殿』で最期まで大物演歌歌手を支えた3人の住み込み女性スタッフの現在に驚きを隠せない…

美空ひばりが晩年 息子・加藤和也に託した遺書の内容に涙腺崩壊…『ひばり御殿』で最期まで大物演歌歌手を支えた3人の住み込み女性スタッフの現在に驚きを隠せない…

みなさん、こんにちは。

9歳でデビューして、天才少女歌手と謳われて以後

歌謡曲・映画・舞台などで

目覚ましい活躍をし、自他共に歌謡界の女王と認める

存在になった美空ひばりさん。

今回は、住み込みで美空ひばりさんの

お世話をしていた3人の現在と、

亡くなる直前に、息子に渡していた手紙の内容

小林旭さんとの衝撃的な馴れ初め、離婚理由について

ご紹介します。

美空ひばりさんは、小林旭さんと

1962年に結婚されて、2年後の1964年に離婚されています。

美空ひばりさんは、当時、かなり肉食系で知られていたそうで

小林旭さんとの馴れ初めも、かなり衝撃的な内容でした。

お二人の出会いは、1961年で雑誌の対談の場でした。

美空ひばりさんは、小林旭さんに「恋人いるの?」と聞いて

小林旭さんが「いない」と答えると

美空ひばりさんは、「じゃあ、私と親しくして。」と

返したそうです。

美空ひばりさんは、今でいう肉食系女子でした。

お二人は、すぐに交際が始まったみたいですが

芸能人があr詰まるようなパーティーに出席した時に

美空ひばりさんは小林旭さんのことを

「私のダーリン」と紹介して回っていったと言われています。

まるで、小林旭さんの眩道をどんどん塞いでいくあたり

男性としては、恐怖を覚える方もいるのではないでしょうか。

さらに、美空ひばりさんは、肉食系女子の

本領を発揮することになります。

美空ひばりさんの父親代わりでもあった

「神戸のおじさん:と呼んでいる

3代目組長の岡田一雄さんに、自分は結婚したいから

その気持ちを小林旭さんに伝えてきてとお願いしました。

当時、このような会話だったそうです。

(田岡一雄)「お嬢があんたに惚れていると言うとんのや。

天下の美空ひばりにあんた惚れられて、男名冥利に尽きるやないか・」

(小林旭)「僕は結婚するにはまだ早いので」

(田岡一雄)「ひばりは、あんたと一緒にならなんだなら

飯を食わへんと言うとんのや。

どや、一緒になったれ!」

(小林旭)「わかりました」

当時、小林旭さんはまだ結婚する気はありませんでしたが

組長から強引に結婚する方向に持っていかれました。

そして、1962年11月5日に、お二人は結婚することになります。

美空ひばりさんが25歳、小林旭さんが24歳でした。

結婚後、美空ひばりさんは

小林旭さんの大好物であるローストビーフを

料理本をみながら、頑張って作ったりしていたそうです。

小林旭さんは、「徹子の部屋」に出演した時に

「結婚生活でのひばりは、懸命によき妻を演じようとし

女としては最高だった。」と黒柳徹子さんに話していました。

順調な結婚生活を送っていると思われましたが

お二人は、結婚後からわずか2年後に離婚してしまいます。

お二人の離婚は、美空ひばりさんの母親である

喜美枝さんと組長の岡田一雄さんが関係していたそうです。

実際、美空ひばりさんの母親、喜美枝さんは

過去にこのように話していました。

「人生で一番不幸だったのは、娘が小林旭と結婚したこと」

「人生で一番幸せだったのは、小林旭と離婚したこと。」

離婚の原因は、このひばりさんの母親が

原因とも言われています。

喜美枝さんは、小林旭さんにこう言い続けていたそうです。

「加藤和枝は嫁にだすけど、美空ひばりはやらないよ。」

加藤和枝は、美空ひばりさんの本名です。

喜美枝さんは小林旭さんのことを

本当に疎ましく思っていたのでしょうね。

美空ひばりさんの母親が

2人の結婚生活に介入してきて

2人の夫婦生活を邪魔したとも言われています。

また、最初は、美空ひばりさんも結婚生活を

円滑にいくように良い奥さんとして

頑張っていましたが、やはり歌手として歌を歌うことが忘れられず

歌手活動を再開することになります。

このことから、2人にすれ違いが生じてきてしまい

小林旭さんも結婚生活日不満を持つようになりました。

そして再び、小林旭さんの前に、田岡一雄さんが現れ

「別れてやれや」と言われたそうで、離婚することになったそうです。

小林旭さんは、記者会見にて

本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、

和枝(美空さんの本名)が僕と結婚しているより、

芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、

と思って、理解離婚に踏み切った。

未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ。

と語られていました。

また、この「理解離婚」は、

世間では離婚の理由よりも

理解離婚の方が注目され流行語になったみたいですよ。

2人は結婚はしていましたが、戸籍上では入籍していません。

なので美空ひばりさんは戸籍上では生涯独身なんです!

小林旭さんは入籍したいと思っていたそうなんですが、

ひばりさんの母に不動産処分の問題があるからと断られていたそうです。

正直、それだけだったんでしょうか?

もし事実上の結婚をしていてうまくいっていたら、

美空ひばりさんの莫大な財産は

小林旭さんにも入ってきたでしょうし、

喜美枝さんにとっては彼に財産を渡したくなかったのかもしれませんね!

またお二人にお子さんはいるのかについてですが

美空ひばりさんと小林旭さんの間には子供はいません。

まぁ2年間という短い間ですし、

今のようないわゆる『授かり婚』なんてのは

当時の時代にはそんなになかったでしょうしね。

ただ美空ひばりさんには

加藤和也というお子さんがいますが、

ひばりさんの実の弟・かとう哲也(歌手・作曲家)さんの子供で、

かとう哲也さんがなくなった後、

美空ひばりさんが養子として引き取ったそうです。

続いて、美空ひばりさんには

身の回りのお世話してくれる女性が3人いたそうです。

美空ひばりさんの息子、加藤和也さんが

この女性3人の現在について、語られていたので

ご紹介します。

美空ひばりさんの生前、ひばり御殿と呼ばれた

都内の自宅には、住み込みで身の回りのお世話する

女性が3人いたとのこと。

今は、「記念館」となっているそのお宅に

以前、開館直前、今から約8年前に

報道関係者が取材に伺ったそうです。

この時、美空ひばりさんが亡くなってから

25年経っていたそうですが、その時も3人の女性が

住み込みスタッフとしてそこで働いていたそうです。

報道関係者の方は、取材時に、美空ひばりさんの

大好物だった、ところてんをごちそうになったことを

よく覚えていると話していました。

3人の女性のひばり愛と、3人を雇用し続ける

長男で、ひばりプロダクション社長の加藤和也さんの

大様さにも驚きです。

3人の平均年齢は当時で71歳前後、まもなく80歳になろうと

している今は、どうしているのだろうかと疑問に思っていたところ

「ひばりさんへのオマージュ」というアルバムを発売した

クラシックの鮫島有美子さんの公演が

都内で行われ際に、会場に訪れた加藤和也さんが

3人の女性の今について語ってくれたそうです。

「3人とも、記念館にいらっしゃいますよ。

実はそのうちのお2人は、介護が必要になっているんですけどね」と語り

通いのヘルパーさんの助けをかりながら、

今も3人は住み慣れたひばり御殿で心安らかな老後を送っているという。

美空ひばりさんが生きていれば、2022年5月で85歳。

まだまだ元気でいてもおかしくない年齢です。

2021年が、三十三回忌だったことを思うと

改めて、あまりにも早い死でした。

最後に、美空ひばりさんが、息子である

加藤和也さんにだけ遺したと言われる

最後の手紙についてご紹介します。

テレビ番組「直撃!シンソウ坂上」にて

加藤和也さんが、最後の手紙について語ってくれていました。

美空ひばりさんが亡くなる約1ヶ月前のことだそうで

息子である、加藤和也さんにしか見せなかったと言う手紙。

その手紙には、このように書かれていました。

色々と、和也に精神的にも苦労させてしまってごめんね。

でも、息子がしっかりしているから

ママは安心して専念できます。

早く元気になって、和也と楽しい人生を送りたいと夢見ています。

和也の新しい道を見つめて居ます。

頑張ってちょうだい。

今度こと、悩みを引きずって

死にたいなんて思わずに、生きることに向かって歩みます。

と手紙に記されていました。

加藤和也さんはこの手紙に対して

このような本音を語ってくれていました。

僕一人のお母さんになんか

絶対になってもらえる人じゃない。

ずっとあったんで、その寂しさが。

なんかね、最後、お袋、やっぱりいた。

僕だけのお袋。

と、胸の内をさらけ出してくれました。

この手紙から、美空ひばりさんは息子思いであることが分かりますし

加藤和也さんも、この手紙が原動力となっているみたいですね。

これだけ熱いメッセージを遺された美空ひばりさん。

歌手としてはもちろんの事、母親としても

相当芯が強い女性だったと言うことが分かりますね。

美空ひばりさんは、 重度の慢性肝炎(肝硬変)と

両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され

長きに渡り、闘病生活を繰り返していました。

退院後も肝機能は回復せず、

大腿骨頭壊死の治癒も捗々しくなく、

病状は一進一退。50歳の1988年4月、

東京ドーム復帰公演でステージに立ち、

痩せ衰えた体をかろうじて支え、

脚の激痛に耐えながらも全39曲を熱唱。

1989年2月6日の福岡サンパレス公演で、

持病の肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態になるが、

コンサートを強行。

1100人の観衆を前に全20曲を熱唱。

翌2月7日、北九州市小倉にある

九州厚生年金会館での公演が、生涯最後のステージになりました。

美空ひばりさんはその後も、気力を振り絞って

公演を続けようとしましたが

自宅療養を余儀なくされました。

だが、翌月の3月21日にラジオにて

10時間ロングランの時週番組に

自宅から生出演し、番組終盤に

生涯最後のコメントを残されていました。

「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて

いつの間にかいなくなるのよ。」と語られていました。

その後は、病院にて闘病生活を送り

5月29日、病室で52歳の誕生日を祝いました。

しかし、約2週間後の6月13日に呼吸困難の重体に陥り、

人工呼吸器を装着。

順天堂病院の医師団に対して

「よろしくお願いします。頑張ります」と告げ

加藤和也さんが「おふくろ、頑張れよ」と声を掛けると、

両目に涙を浮かべるが、奇跡は起きませんでした。

美空ひばりさん自身は、きっと最後のステージにするつもりは

なかったと思いますが、

やはり満身創痍の状態で命を削ってのステージだったため

今でも、伝説として多くの方に語り継がれています。

最近ではAIで美空ひばりさんの歌声が聞けると話題になっています。

今でもファンの多い美空ひばりさんの歌声を

こうして聞けるのもなんだか不思議な感じがしますが

これからも、多くの人に、次の世代に

語り継がれていってほしいですね。

最後までご視聴いただきありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。
芸能LAB編集部

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