みなさん、こんにちは。 「必殺」シリーズの中村主水役や、 はぐれ刑事純情派」の安浦刑事でお馴染みの、 藤田まことさんですが、今回は、 そんな藤田まことさんの 生い立ちや少年時代、妻の借金、 子供、病気や死因についてご紹介します。 名前:藤田まこと 本名:原田眞(はらだまこと) 身長:173cm 出身地:1933年4月13日 血液型:AB型 藤田まことさんは、 2008年4月に体調不良を訴え 検査をしたところ、食道ガンが判明。 同年の6月に出演予定だった、 東京、明治座公演「剣客商売」を降板し入院。 同年の5月25日には、8時間に及ぶ手術を受けました。 藤田まことさんは、手術後、ICUに運ばれ 麻酔から目覚めると、 意識が朦朧としているにもかかわらず 集まった家族に両手をあわせ、 すまなかった。ありがとう。と 感謝を述べ、その後病室に訪れた執刀医にも ありがとう!と言いながら、 力を振り絞るように手を出し、握手をされたようです。 その後、藤田まことさんは 手術から5ヶ月後の2008年10月下旬には 「必殺仕事人2009」で仕事復帰を果たします。 しかし、2009年11月に出演予定だった 連続ドラマ「JIN〜仁〜」を 「慢性閉塞性肺疾患」のため、降板します。 その後、体調が回復したため、 復帰を目指し、療養生活を送っていましたが 2010年2月16日、大阪府・箕面市の自宅で夕食後の家族団らんの中、 突然、吐血。大阪大学医学部付属病院に搬送されるも、 翌17日の午前7時25分、 「大動脈瘤破裂」のため他界されたのでした。 この警報に対し、1960年代、コメディ時代劇「てなもんや三笠」で 小坊主の珍念役で藤田まことさんと共演し、 お茶の間を沸かせた、白木みのるさんがコメントしていました。 数日前に再び入院したと聞いたが、こんなに早く亡くなるなんて。 本当にショック。実感がわかない。と語ると 藤田まことさんは、私にとってはライバルであり仲間であり、戦友。 2人とも貧しくてね、劇場の楽屋を出たら お客さんが落としていったお菓子がいっぱいあって。 一緒に拾うて食べたこともあった。 と、思い出にふけり、 ずっと「あにい、あにい」と言って慕っていました。 76歳だなんて、あまりにも短い。もっと活躍してほしかった。 時間がたったら実感がわくかな。今晩あたり 思い出が吹き出て寝床で枕を濡らすかも。 と語っていました。 ちなみに、通夜・葬儀は、長男の原田知樹さんが喪主を務め、 近親者のみで執り行われたのですが、 葬儀は密葬にもかかわらず、約100名が弔問に訪れ、 その後も、政財界や芸能関係者からは、 藤田まことさんにお別れを言いたい。 との声が多く寄せられたことから、 11月24日、東京国際フォーラムで 「藤田まこと役者人生最後の花道」として 藤田まことさんを偲ぶ会が行われると 600名以上参列したそうです。 役者人生を全うした。といっても過言ではない、 藤田まことさんですが デビュー当時は、かなりの借金に苦しんでいたそうです。 藤田まことさんは、1959年、26歳の時 一般女性の幸枝さんという方と、結婚されています。 ただ、藤田まことさんは当時、駆け出しの俳優だったため 結婚資金がなく、新居を購入するにあたり新居の他に なんと自身を担保に入れて家を購入しました。 さらには、結婚式と披露宴を行う予定のホテルに 私の結婚式には大物の芸能人がたくさんきます。 その模様をビデオに撮って、CMを作ってください。と 結婚式の模様を収めた映像を1年間 式場のテレビコマーシャルに使用させることを 引き換えに、四季と披露宴の費用を無料にさせたそうです。 ちなみに、披露宴に参加した芸能人らは、事前に何も説明されておらず 苦情が殺到したそうです。 ですが、最終的には中田ダイマルさんが 今回のカタに自分のところで一生タダ働きさせる。と仲裁してくれ 解決したと言われています。 こうして結婚した藤田まことさんは、3人のお子さんにも恵まれ 同時に、「必殺」シリーズで公私共に絶頂期を迎えていたにもかかわらず 妻・幸枝さんの事業の失敗などで なんと役30億円もの借金を抱えてしまいます。 というのも幸枝さんは、大阪の北新地などで 飲食店やブティックなど手広く経営していました。 バブル絶頂期の1987年には、 藤田まことさんの人気も後押しも利用して 京都の観光名所・嵐山の一等地に、高級レストラン「嵐山主水」を開店。 この高級レストラン「嵐山主水」は 土地台だけで約10億円と言われていました。 しかし、バブル崩壊と共に資金繰りに行き詰まり 1993年、幸枝さんが降り出した約束手形3通、 合計5000万円が大阪市内の 闇金融やブラック関係の人らに出回ったことで、 藤田まことさんが自宅などを 担保に約30億もの借金を抱えていることが判明したのでした。 それでも、藤田まことさんは、幸枝さんの自己破産を選ばず 年間2億円の返済を目標に掲げ、テレビや映画の撮影の合間を縫って トークショーや歌謡ショーなど、 年中無休で借金返済に追われる日々を 送っていました。 しかし、そんな努力もむなしく、 2009年に、滞っていた3億円の支払いを 大阪地裁に命じられ、亡くなるまで借金返済が続いたのでした。 また、この幸枝さんの借金について藤田まことさんは、 欲の出し過ぎもあったし、お人好しやったんでしょうね。 いい苦労しました。と人懐っこい表情で苦笑いをし 借金に追われる毎日でも愚痴ひとつこぼすことなく 私の姿を見て、なんらかの勇気を持ってもらえれば。と リストラ世代にエールを送られていたそうです。 次は、藤田まことさんの息子さんや娘さんについてご紹介します。 息子さんは、原田知樹さんというのですが 2015年1月、大阪市内のビジネスホテルで 覚せい剤を使用したとして、覚せい剤取締違反の容疑で 大阪府警天満署に捕まってしまいます。 原田知樹さんはなんでも、知人女性との間でトラブルがあり 駆けつけた大阪府警が、原田知樹さんの様子をみて 不審に思ったことから、尿検査をしたところ 覚せい剤の陽性反応が出たとのことでした。 また、藤田まことさんも一度、薬物使用で捕まっていた過去があり 自身の著者「最期」のなかで 九州からの巡業の帰りの夜行列車の中で カバンのなかに、ヒロポンのアンブルが1本残っていました。 大阪に帰ればまた手に入るわ。1本、打っておこう。と 僕は列車のトイレに向かいました。 トイレに入って、扉を閉めて便器に軽く腰掛けて アンブルから注射器を取り出しました。 注射器にヒロポンを移して、打とうとして 腕に針を刺したその瞬間、突然扉が開いたんです。 「何しとんのや」と声をかけられ振り返ると 制服のお巡りさんが立っていました。 僕は、扉の鍵をかけ忘れていたんです。 手元にあるのは、最後の1本のヒロポン。 ここで捨てるのはもったいない。僕はとっさに注射器を押しました。 お巡りさんが手を伸ばした時には、ヒロポンは僕の身体の中に 入っていました。 そしてお巡りさんに殴られ、途中の尾道で降ろされ 警察に連れて行かれました。 と違法薬物の使用を告白していました。 また、長女は、原田敦子さんというそうで、 藤田まことさんの個人事務所「株式会社藤田まこと」の 企画代表取締役をされているそうです。 ちなみに、敦子さんは、 ご主人がハワイ在住の日系三世であることから、 娘を出産後、9年ほどハワイに住んでいたそうで、 藤田まことさんは、年に数回、 娘一家に会いにハワイを訪れるのを、 とても楽しみにされていたそうです。 そして、次女は、ゴスペルシンガー、女優として活動されている、 EMIKOさんで、「必殺仕事人V」「必殺橋掛人」の 主題歌「さよならさざんか」も歌唱されています。 さらに、藤田まことさんの孫娘、長女の敦子さんの娘さんは 2013年15歳の時に「花リーナ」として、 ダンスナンバー「Take Me Higher」で 配信デビューされています。 ちなみに、花リーナさんは、同年6月30日には、 シンガポールの高級ホテル 「マリーナベイ・サンズ」で行われたダンスの世界大会で 同曲を披露されているのですが、 ミステリアスなほうがおもしろいと思って。と 覆面姿で活動されています。 最後に、藤田まことさんの生い立ちをご紹介します。 原田まことさんは、無声映画時代のスター俳優 藤間林太郎さんと、林太郎さんが身請けした 元芸妓の間に、次男として東京で生まれます。 元芸妓の母親は、藤田まことさんを出産後 体調がすぐれず、伏せりがちとなり 藤田まことさんが6歳の時に他界。 そのため、藤田まことさんは母親の記憶がほとんどないそうです。 また、父親からはのちに藤田まことさんが芸能人になった時に お前が生まれるのには金がかかっている。 芸人ならばお前の代で元を取れ。と言われたそうで それほど、生活は豊かではなかったようです。 そして、藤田まことさんが、小学生の時に父親は再婚します。 藤田まことさん自身は、 特に継母に反感を抱いていたわけではなかったものの お兄さんが反抗していたことから、 その影響を受けて反抗するようになります。 その後、お兄さんが反抗しなくなっても、 藤田まことさんだけは反抗を続けました。 決して、継母をお母さんと呼ばない、頑固な子供だったそうで お兄さんとお姉さんから、お母さんと言え!と 殴られたこともあったそうです。 その後、1943年藤田まことさんが10歳の時、 大坂府枚方市光善寺へと移り住むのですが、 近所に兵器工場があったため、空襲に遭う危険を感じ、 すぐに京都府京都市の四条堀川へ引っ越しされます。 そして、終戦後の1946年には、 藤田まことさんに、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との 養子縁組の話が持ち上がったそうで、 継母が嫌いだった藤田まことさんは承諾し、 その後、養父母とはうまくいっていたそうです。 しかし、お兄さんの戦死が判明したのです。 お兄さんは志願兵として兵役についていたのですが、 乗船中の輸送船「江龍丸」が アメリカ軍の攻撃にあって沖縄の久米島で沈没、 このことをきっかけに藤田まことさんは、 家族の元へと戻られます。 この時には、父親と継母は離婚されていたようです。 すると、お姉さんから、 お前がお母さんのいうことを聞かないので 家の中がめちゃくちゃになってしまった。 だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ。 と言われたそうで、そのため藤田まことさんは お兄さんからの最後の音信であるハガキを見ては 新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、 兄貴は戦争に行かなかったかもしれない。 僕はどうしてお母さんと素直に呼べなかったんやろう。と 後悔したそうです。 また、藤田まことさんは後に、継母についても いい人でした。大金持ちのところから、 惚れて貧乏役者のところに来たのに 子供がまったく懐かなかったというのは辛いことだったでしょう。 彼女にも悪かった。と語っていました。 決して幸せとは言えない少年時代を過ごし、 長い下積みを経て、テレビドラマでは何度も大ブレイク、 そして、晩年は、病気に苦しみながら借金返済という、 とても波乱に満ちた人生を送られた藤田まことさん。 藤田さん自身が幸せだったかどうかは知る由もありませんが、 少なくとも、大勢の人達が藤田まことさんの人柄を 愛していたのは間違いありませんね。 藤田まことさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。 最後までご視聴いただきありがとうございました。 コメントを残してくれると、嬉しいです。 チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。 それでは、また。
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