赤木圭一郎を突然襲った事故の真相に涙が零れ落ちた…「トニー」愛称で親しまれた人気俳優が愛した人物の正体に一同驚愕…

赤木圭一郎を突然襲った事故の真相に涙が零れ落ちた…「トニー」愛称で親しまれた人気俳優が愛した人物の正体に一同驚愕…

みなさん、こんにちは。

みなさんは、俳優の赤木圭一郎さんという方をご存知でしょうか。

かつては俳優や歌手として活躍されていた方でした。

若くして銀幕を代表するスターとなった赤木圭一郎さん。

彼が早世していなければ

間違いなく日本の芸能界の歴史は、大きく変わっていたことでしょう。

赤城さんは、1939年5月8日、

歯科医をする家庭の元に生まれました。

東京都で生まれますが、神奈川県鎌倉市に疎開し、

1948年4月に藤沢市に移り住みました。

そのため、中学校は初めに通っていた栄光学園中学校から

藤沢市立鵠沼中学校に転校しています。

中学校卒業後は、神奈川県立鎌倉高等学校に進学し、

当時は創設されて間もなかった、東京都世田谷区にある

私立大学の成城大学の入学しています。

1958年に日活の第4期ニューフェイスとなった赤木さん。

同年公開の映画、「紅の翼」にエキストラとして出演しました。

この時は、本名である

「赤塚親弘」という名義で出演していました。

映画デビューを果たすと、西洋風な風貌と雰囲気が話題になりました。

同時期に活躍していたハリウッドスターの

トニー・カーティスさんに似ていた事もあって

「トニー」という愛称で親しまれていました。

赤木さんが映画初主演を務めたのは

1959年の「素っ裸の年令」です。

その後も多くの映画に主演し、

石原裕次郎さん、小林旭さんと並び

第3の男と呼ばれるようになりました。

エキストラとして出演した映画「紅の翼」で主演を務めていたのが

石原裕次郎さんでした。

これほど早く石原裕次郎さんと並ぶほどの存在になることを

誰が予想できたでしょうか。

毎年のようにニューフェイスとして

将来が期待されるスターが誕生していた当時の映画界で

赤木さんほどのスピードで出世街道を駆け上がった人は

数えるほどでしょう。

俳優として活躍する一方で、

生前は歌手としても活動していました。

「霧笛が俺を呼んでいる」など全25曲をリリースし

どれもヒットしていたそうです。

デビューから一気に人気を集め、一躍スターとなった赤木さん。

しかし、1961年2月21日に突然の別れがきます。

ことの発端は、1961年2月14日のバレンタインデーの日でした。

当初、石原裕次郎さんが怪我をしたことによって

出演するはずだった「激流に生きる男」に出演できなくなり、

代役として、赤木さんが抜擢されました。

その映画の撮影中の休憩時、

セールスの方が持ってきたゴーカートを、

日活撮影所内で運転していた赤木さん。

なんと、ブレーキとアクセルを踏み間違えて

時速60キロ以上というかなり早いスピードで

大道具倉庫の鉄扉に激突してしまいました。

その後、東京都の北多摩郡狛江市にある

慈恵医大病院に緊急搬送されました。

緊急搬送されたのち、一度は意識が戻ったものの

2月20日に再び昏睡状態に陥ります。

それから回復することはなく、2月21日に

前頭蓋骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため急死しました。

俳優歴3年ほどでしたが、人気はすごいものだったので

多くのファンや関係者などが、驚きと悲しみに包まれていたようです。

また、赤木さんが亡くなった後に代役に指名されたのが

高橋秀樹さんでした。

1961年に第5期ニューフェイスとして、

日活に入ったばかりの新人が主演格で出演するのは、

当時としては異例のことでした。

この映画がきっかけで高橋秀樹さんは、

一躍注目を集める存在になりました。

日本芸能界にとって大きな転機となった、

赤木さんの事故。

良くも悪くも、その後の芸能界に大きな影響を与えたことは間違いありません。

亡くなってからも6年間に渡って、男性俳優部門で

トップ10に入るほどブロマイドが売れ続けたという赤木さん。

赤木さんが、如何に多くの人々に愛されていたかがよくわかります。

当時、赤木さんは21歳の俳優をしながら

成城大学に通っている大学生でした。

かなりの美形だった事から、女性にモテていたそうです。

結婚していたのか調べてみましたが、

そのような情報はありませんでした。

そんな中、愛し合った方はいたとのことです。

美輪明宏さんは、赤木さんがお亡くなりになってから約7年後に

赤木さんと恋愛関係にあったことを明かしています。

共に芸能界で活躍されていた赤木さんと美輪さん。

意外にも文学の話題がきっかけで交流が始まったそうです。

美輪さんが音楽と文学を愛するのは有名ですが、

どうやら赤木さんも負けず劣らずの文学青年だったようです。

当時は関係を隠しており、公になることを恐れて、

本当は参列したかったであろう

赤木さんの葬式には顔を出すことはなかったと言います。

突然すぎる死に、美輪さんは代表曲である「愛の讃歌」を

歌えなくなるほどの、心の痛みだっだと語っていました。

かの文豪、三島由紀夫さんに「君には一つ欠点がある。

それは俺に惚れないことだ。」と言わしめた

美輪さんをも虜にした赤木さん。

その事実だけで生前の赤木さんを知らなくても

どれだけ魅力的な人だったかが、伝わってきます。

赤木さんは今から59年前、1961年に

21歳という若さで急逝しました。

58年経った今でも赤木さんは、ファンの心の中で生き続けているようで

そのファンの想いが形となりました。

生きていれば、83歳となる赤木さん。

2019年7月に生誕80周年を記念して、

「ポスター集 赤木圭一郎は生きている」が刊行されたのです。

亡くなってからかなりの年月が経っているののも関わらず、

ポスター集が刊行されるだけでも凄いことなのですが、

これだけでは終わりませんでした。

ポスター集刊行を記念して、7月12日から16日の5日間、

横浜市にある港南区民文化センターの

ひまわりの郷ギャラリーで大ポスター展も開催されたのです。

実際に訪れているファンは多く、

SNSで感想を投稿している方もいました。

俳優として活動した期間は少なかった赤木さんですが、

エキストラで出演した作品も含めると

なんと44本も出演しており、ポスターだけでも

約120点にまで及ぶそうです。

赤木さんが事故を起こした撮影所の

大道具倉庫も売却されており、

年月を重ねるたびに関連性の深いものや場所がなくなっていき、

ファンも同じように年齢を重ねています。

それでもファンの想いは強く、「赤木圭一郎を偲ぶ会」

という交流会が開かれているようでした。

ここでは定期的にファンが集まり、

交流を重ねています。

年月が経ってもなお、ファンの心の中から

赤木圭一郎さんがいなくなるようなことはないようです。

赤木さんの偉大さを感じることができます。

赤木さんのご冥福をお祈りすると共に、

これからも「赤木圭一郎を偲ぶ会」が続いていくことを願います。

最後まで動画をご視聴いただき、ありがとうございました。

コメントを残してくれると、嬉しいです。

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それでは、また。

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