みなさん、こんにちは。 みなさんは、松本人志さんをご存知ですよね。 松本人志さんと言えば、お笑い芸人「ダウンタウン」のまっちゃんとして 今やテレビで見ない日はありません。 そんな、芸能界で成功を収めた松本人志さんですが 実は幼少期はとんでもなく、貧乏だったようです。 またその過去を乗り越え、有名になるきっかけとなった 「ごっつええ感じ」では顔面血まみれになるという 不運に見舞われたことがありました。 今回はそんな松本人志さんの過去について紹介していきたいと思います。 ぜひ、最後までご視聴ください! 初めに、松本人志さんの貧乏エピソードを見ていきましょう。 1つ目は、お風呂は近所の銭湯へ行っていたことです。 松本人志さんの実家は、兵庫県尼崎市にありました。 尼崎は他の地域より貧しい家庭が多いのですが 松本人志さんの家は、その中でもかなりの貧乏レベルでした。 もちろん家にお風呂はないため、近所の銭湯に通っていました。 入浴も毎日ではなく、数日に1回だった可能性もあります。 ちなみに「昭和銭湯」という所に、相方の浜田雅功さんとよく通っていたようです。 2人は休憩所にあるピンボールで遊んだり、浜田雅功さんは女湯を除いたりと 意外と楽しい思い出のある場所なのかもしれませんね。 2つ目は、エア自転車で疾走していたことです。 松本人志さんは、少年時代に自転車を買ってもらえませんでした。 友達が自転車で遊んでいる時は、ハンドルを握るポーズをした エア自転車でみんなについていったそう。 自転車を漕ぐ友人の後ろを、ハンドルを握ったポーズで走って追いかける 光景は、想像するとなんだか切ないです。 番組でこのエピソードを披露した時には 最後に鍵を閉め忘れて盗まれたというオチをつけて、笑いに変えていました。 悲しいだけの話に終わらせない松本人志さん、やはり芸人として貫禄があります。 3つ目は飼い猫が咥えてきた魚がディナーだったことです。 松本家には、チョウスケという飼い猫がいました。 ある日、松本家の向かいの寿司屋から トロを咥えて帰っていたチョウスケ。 父親がチョウスケの頭を叩いて吐かせ そのトロを、家族全員で食べたそうです。 サザエさんの歌の逆バージョンですね。 4つ目は寿司屋ではタコしか食べなかったことです。 松本人志さんは、滅多にいけなかったものの 寿司屋に行ったことがありました。 寿司屋では、タコばかり頼んでいたという松本人志さん。 タコが一番安いと思い、親に気を遣ってタコしか頼まなかったんだとか。 浜田雅功さんが歌った「チキンライス」の作詞をした松本人志さんですが この歌詞でも、気を遣ってチキンライスしか頼まなかったという部分がありました。 子供の頃から、自分の家は貧乏だと自覚していた松本人志さんは おねだりなどは全然しなかったそうです。 欲しいという気持ちよりも、家の経済状況を見て行動する癖が ついていたんですね。 5つ目が冷蔵庫の中がほとんどからっぽだったということです。 松本家の冷蔵庫には、いつもネギとマーガリンしか入っていなかったんだとか。 ネギとマーガリンしかないなら、逆に電気代の方がかかりそうなものですが…。 ちなみに家にはレンジがなかったため 松本人志さんはレンジを使ったことがありませんでした。 松本人志さんが初めてレンジを使ったのは お姉さんが離婚して、慰謝料としてレンジを持って帰ってきたときだったそうです。 そんな状況になるまでレンジが使えなかったなんて 本当に貧乏だったのでしょうね。 6つ目が親に何度も捨てられそうになったことです。 これが一番衝撃的でした。 松本人志さんの父親は、家族団欒の時でも 普段から兄を可愛がっていました。 ある日、松本人志さんが父親と2人で外出した際 「人志、涼もう」と連れ出されました。 しかし父親は、松本人志さんからどんどん距離を取って 離れて行こうとしたんだそう。 その姿を見て「俺、捨てられるんや…」と ショックを受けながらも、必死にはぐれないように ついていいたんだとか。 これは強烈なトラウマとして、松本人志さんの中に残っていると コメントしています。 想像すると涙が出そうですね…。 しかし大人になって兄におの話をしたところ 兄も同じ目に遭っていたと発覚しました。 父親のジョークだったのか、本気だったのかは闇の中です。 次に松本人志さんが血まみれになった事件について見ていきましょう。 壮絶な過去を送った松本人志さんは その後相方の浜田雅功さんとお笑いコンビ「ダウンタウン」と結成。 そのダウンタウンを一躍、全国区にした番組といえば 「ごっつええ感じ」です。 彼ら2人を中心に展開される、全く新しい手触りの笑いは 世間に衝撃を与えました。 そんな「ごっつええ感じ」が レギュラー番組としてスタートしたのは、1991年のこと。 当時のダウンタウンといえば、東京に進出してきてまだ2年目の頃。 意外と下積み時代が長い彼らですから 功名を成そうと、野心をたぎらせていたに違いありません。 そのエネルギーこそが、松本自身が今観ても「面白い」と思える 不朽のコントを生み出した原動力だったのでしょう。 同時に、意欲的な若手である2人に対し 「多少、無茶をやっても大丈夫だろう」という番組側の意図が働き かなり危険な企画に挑戦させられることもありました。 その結果、起こってしまったのが「エアバッグ事件」です。 1991年の放送初年度のことです。 番組には「なんなんなあに何太郎君」というコーナーが設けられていました。 これは、視聴者からの質問に対して ダウンタウンが体を張って検証するといった企画です。 いまやお笑い界の大御所となり、年末の「笑ってはいけない24時」以外では 若手・中堅芸人に無茶をさせ、自分たちは高見から観て笑っていることが 多くなった2人にも、そんな時代があったことに驚きです。 問題の事件が発生したときの質問は 「車のエアバッグって、どれくらいの衝撃で出てくるの?」というもの。 カーユーザーの命を守る安全装置として 今では、ほとんど自動車に装着されているエアバッグですが 初めて日本車に搭載されたのは1987年。 番組放送当時がその4年後ですから まだまだ一般化する前で物珍しかったのでしょう。 そのため、このような検証がなされたのだと思います。 車の運転席に松本人志さんを座らせて いざ検証開始。 はじめは、ボンネットを金槌やハンマーで叩きます。 ですが、全く反応しません。 続いて登場したのが巨大な丸太。 それを車体に何度かぶつけたときです。 「ボンッ!」という衝撃音と共に 勢いよくエアバッグが飛び出し、それが松本人志さんの顔面を直撃しました。 放送では、急に浜田雅功さん1人の映像に切り替わり 「うわ~びっくりしちゃったねぇ~ びっくりしすぎて何太郎くんがどっかいっちゃったよ~」 というセリフと共に、コーナーは幕を閉じます。 何太郎くんとは、松本人志さんがこのコーナーで演じている役です。 オープニングは2人並んで始まっていたのに、この終わり方……。 明らかに不自然です。 要するにこれは、松本人志さんがテレビ画面に 写ってはいけない顔になってしまったのです。 この時の、松本人志さんの状態は酷いもので エアバッグの衝撃をモロに受けた顔面は 火傷したように晴れ上がり、いたるところから出血。 あまりの激痛から「何太郎くん」のメイクを取れずに 一週間も自宅で休暇を取っていたということでしたので 本当に顔が悲惨な状態になっていたのでしょう。 後年、松本人志さんは自身のラジオ番組『放送室』や 現在放送中の『ワイドナショー』でも、この事件について発言しています。 松本人志さんの言うところによると 丸太をぶつけてエアバッグが出たというのは 実のところフェイクであり、本当はスタッフがスイッチを押し 意図したタイミングで作動させていたのだとか。 さらに、スタッフから「エアバッグの前に顔を寄せろ」 と指示されてもいたらしいのです。 今ではタレントの安全を考慮し、ADなどによる事前検証を行うのは 当たり前ですが、当時はそんな習慣がなかったのでしょう。 この件があって以降松本人志さんは 「テレビのスタッフを信用しきっちゃイカンと思った」と 語っています。 その後もスタッフの怠慢によるトラブルが続いたことで 彼は番組に嫌気が差していき、ついに 「勝手にプロ野球の生中継と放送を差し替え事件」によって 番組を終わらせてしまうのです。 この「「勝手にプロ野球の生中継と放送を差し替え事件」」が 気になった方はぜひ、調べてみてください。 最後まで、動画をご視聴いただきありがとうございました。 コメントを残してくれると、嬉しいです。 チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。 それでは、また。
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