竜鉄也の視力を失った悲劇に涙が止まらない…『奥飛騨幕情』でデビューした男性歌手の妻と始めた飲食店の火災事故が衝撃的すぎた…

竜鉄也の視力を失った悲劇に涙が止まらない…『奥飛騨幕情』でデビューした男性歌手の妻と始めた飲食店の火災事故が衝撃的すぎた…

みなさん、こんにちは。

『奥飛騨幕情』でデビューを果たした龍鉄也さん。

しかし、この奥飛騨幕情を出したばかりは

全く売れずにあることがきっかけで

ブレイクを果たしたそうです。

龍鉄也さんは、両目が見えない歌手としても有名でした。

そこで今回は、龍哲也さんの経歴と合わせて

失明した原因や

デビューシングルの奥飛騨幕情などの

楽曲の制作秘話についてご紹介します。

本名:田村 鐡之助 (たむらてつのすけ)

生年月日:1936年1月1月

出身地:奈良県吉野郡

カテゴリー:歌手

活動開始:1980年

龍鉄也さんは雪が多く降る、

飛騨高山で父と義母に育てられました。

龍鉄也さんは子供の頃にはしかを患ってしまい

それが原因で中学2年生の時に視力を失ってしまいます。

その後、手術を行い、一旦は少し視力が復活しますが

26歳で再び、視力を失ってしまいます。

龍鉄也さんは視力がなくてもできる仕事をということで

マッサージ師の仕事をするために勉学に励み

それと同時に、音楽の勉強も行っていました。

それではここから、龍鉄也さんの楽曲「奥飛騨幕情」

「哀愁の高山」についてご紹介します。

龍鉄也さんのデビューシングルである

「奥飛騨幕情」は龍鉄也さんが作詞作曲を行い

1980年6月25日にリリースされています。

このことからわかるように、龍鉄也さんは

44歳の時に歌手デビューを果たしていることになります。

龍鉄也さんは、なかなかデビューできずにいましたが

音楽の夢を諦めきれず、流しの仕事で生計を立てていました。

また、龍鉄也さんは極寒の真冬でも流しをしていたようで

奥飛騨にあるスナックで歌うことがあった時

屋外から暖かい店内に入ると凍っていた髪の毛が溶けて

額から水が流れ落ちていたそうですが

それでも演奏を止めることなかったそうです。

またそのスナックのママは結婚しており

子供もいたのですが、一生懸命に歌う龍鉄也さんの姿に

惚れてしまい、龍鉄也さんと駆け落ちするのでした。

そして奥飛騨幕情の楽曲ですが

龍鉄也さんが奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に仕事で

長期滞在した際に、雨が続いており

その情景を歌詞に込めたそうです。

そして龍鉄也さんは地元の高山に帰り

流しのレパートリーに入れて歌い始めると

それを聴いた人からの評判は上々だったそうです。

そして龍鉄也さんはここで大きな決断をします。

流しで歌った自身の曲、奥飛騨幕情が上々の人気を得たことから

実費で制作費用を捻出し、レコードを1000枚プレスしリリースしました。

そして、1000枚を売り捌くことはできましたが

それ以上の人気を得ることはできませんでした。

その後は、奥さんとスナックを開店します。

しかしここでも事件が起きてしまいます。

二人で開いた、郡上八幡のスナックが

火事になって全焼してしまうのです。

途方に暮れる二人に、店の再開を強く求める人達がいました。

このスナックを愛した常連達の協力により、

再び店が開くようになったのです。

そしてここで龍鉄也さんに転機が訪れたのです。

常連客の中に作詞家の喜多条忠さんという

音楽に関わっている人がいたのです。

そしてその場所で作詞家の喜多条忠さんが

龍鉄也さんの歌声を聴き

どうしても世の中に出したいということで

レコーディングディレクターだった和田弘さんの力を借り

トリオレコードから世の中に「奥飛騨幕情」の楽曲を

贈りだすことができたのでした。

当時、レコーディングディレクターだった

和田弘さんが徳間を辞めて

独立し、ベストフレンドという会社を設立し

そこでようやくレコードを発売することができたそうです。

続いて、1981年6月16日にリリースした

「哀愁の高山」の楽曲についてご紹介します。

テレビ朝日の番組で「哀愁の高山」を取り上げる話が持ち上がり

急遽リリースする形となったそうです。

また、同年の4月に「軸の女」という曲をリリースしたばかりで

龍鉄也さんはわずか2ヶ月ほどの期間で2曲リリースしたという

形になりました。

また、「哀愁の高山」の楽曲も龍鉄也さんが

作詞作曲をおこなったそうです。

歌詞は、岐阜県の高山市内で

流しをやっていた龍鉄也さんにしか

書けない詩の世界が展開されており

どこにでもある歌ではなく龍鉄也さんにしか描けない

歌に仕上がっています。

龍鉄也さんの歌手としての強みは

長年、流しをやってきたことで長期間に渡り

ヒット曲が出た際も、1日に多くの場所で歌っても

平気な喉だったそうです。

また、流し時代から多くの楽曲に触れていたことから

哀愁が漂うとても雰囲気のある歌い方が完成されていたそうです。

遅咲きで歌手デビューを果たした

龍鉄也さんは、その後も音楽活動に励み

100万枚を超える売上を達成し、紅白歌合戦にも出場されています。

短期間でありながら、一時代を築き、世間に龍鉄也の名前を

刻んだことに間違いない歌手と言えるでしょう。

また、このような人を一発屋という人もいるかもしれません。

しかし、今みたいに発信するメディアや実力を見せる機会が少ない中

一発を当てるというだけでもとても凄いことです。

その一髪さえも当てることができない人が多くいて

色々と模索しています。

それだけ運と努力で夢を掴み取ったとも言えるのではないでしょうか。

その後も精力的に音楽活動を続けてきた、龍鉄也さんは

74歳の時に、くも膜下出血を患い

自宅がある岐阜県高山市市内の病院で静かに息を引き取ったそうです。

今回は、歌手で盲目の龍鉄也さんについてご紹介しました。

苦難を抱えながらヒット曲を導き出した

とてもすごい方だということが分かりました。

元々、龍鉄也さんは歌が上手かったこともあり

それを伸ばし諦めずに歌い続けることで身を結んだのでした。

また龍鉄也さんの経歴からわかるように

人と人の繋がりがとても大切であることがわかりますね。

その繋がりがなければ「奥飛騨幕情」は世間に出ることは

なかったのです。

そして龍鉄也さんの流しのレパートリーの中の1曲といった形で

終わってしまっていっという可能性を考えると

改めて、チャンスを掴むことはとても困難だということがわかります。

また、作詞作曲能力があって龍鉄也さんにしか描けない世界も

成功につながる大きな要因の一つと言えるでしょう。

オリジナリティーがとても大切な音楽の世界において

必要な能力をもっていた龍鉄也さんは遅咲きながらも

歌手になるしかない人生を歩んでいたのかもしれません。

また、オリジナリティーが強い楽曲は

ヒットするケースが少ないといった声も多くありますが

きっと龍鉄也さんの歌声や龍鉄也さんの立ち姿が

聴く人の心を打ったのでしょう。

今後も、龍鉄也さんの楽曲が未来へ

語り継がれていくことに期待したいですね。

最後までご視聴いただきありがとうございました。

コメントを残してくれると嬉しいです。

チャンネル登録、高評価もぜひお願いいたします。

それでは、また。

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