【驚愕】南部虎弾が『ダチョウ倶楽部』初代リーダーを辞め脱退した理由に驚きを隠せない…亡き友・上島竜兵への想いに涙が零れ落ちた…

【驚愕】南部虎弾が『ダチョウ倶楽部』初代リーダーを辞め脱退した理由に驚きを隠せない…亡き友・上島竜兵への想いに涙が零れ落ちた…

みなさん、こんにちは。

「ヤー!」、「どうぞどうぞ」のギャグでお馴染みの、

お笑いトリオのダチョウ倶楽部。

体を張った芸風で、現在も第一線で活躍しています。

そのダチョウ倶楽部のメンバー・上島竜兵さんが自宅にて、

11日、死去したことが分かりました。

芸能界では、上島さんの訃報に対し、

悲しみの声が多く寄せられています。

そんなダチョウ倶楽部ですが、

4人組だった時代があります。

第四のメンバー。それは、

電撃ネットワークで活躍中の

南部虎弾(なんぶとらた)さん。

彼もまた、上島竜兵さんの訃報に接した際、

嗚咽を漏らしながらも、追悼の意を捧げました。

 「元ダチョウ倶楽部の南部でございます」と切り出し、

電話で悲報を受けたことを報告。

「あまりのことに驚きも何も、唖然としてしまいました」

「自分が70歳で、約10個下の上島竜兵が61歳。」

「なんで死ななきゃいけないんだ」

と、悔しさと悲しみを滲ませました。

ダチョウ倶楽部の脱退後、スナックにて

南部さんと志村けんさん、そして上島さんの3人で顔を合わせた際には

「志村さんに『この人のおかげで今こういうふうになったんだよ』と褒めてくれて、

相変わらず優しい奴だなと思っていた」と思い出を語っていました。

今回はダチョウ倶楽部の経歴と、

4人目のメンバー、南部虎弾さんについて調べてみました。

まずは、ダチョウ倶楽部の現行メンバーの、

プロフィールを見ていきましょう。

肥後克広(ひごかつひろ)さんは、

1963年3月15日生まれで、沖縄県出身。

寺門ジモン(てらかどじもん)さんは、

1962年11月25日生まれ、

上島竜兵(うえしまりゅうへい)さんは、

1961年1月20日生まれです。

ちなみに、ジモンさんと上島さんは、共に兵庫県出身です。

肥後さんは商業デザイナーから転身して、

コメディアンの杉兵助に弟子入り、

渋谷道頓堀劇場にてお笑い芸人として活動しており、

ジモンさんと上島さんは、劇団テアトル・エコー附属養成所に、

所属する役者のたまごでした。

彼らが知り合ったのは、テアトル・エコーの先輩・渡辺正行さんの紹介で、

3人はコント赤信号の劇団員として活動後、

多人数のコントグループ「キムチ倶楽部」として活動、

キムチ倶楽部には20~30人のメンバーがおり、

俳優の近藤芳正さんなども在籍していたようです。

当時渡辺さんが立ち上げた第1回のラ・ママ新人コント大会に、

出場する事になっていたがすっかり忘れており、

直前に連絡のついた、現行メンバー3人と元メンバーで参加する事に。

それが成功した事でそのメンバーでの活動が増えましたが、

芸風やそれぞれの方向性の違いにより、脱退。

1987年に現在の3人体制で「ダチョウ倶楽部」としてデビューしました。

「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」、「スーパージョッキー」、

「つかみはOK!」などの番組で、披露するリアクション芸で人気になりました。

主なギャグに先述の「ヤー!」、「どうぞどうぞ」の他に、

「聞いてないよぉ~」、「クルリンパッ」、

「殺す気かー!」、「取り乱しました」などがあり、

お茶の間で愛されました。

ちなみに、「聞いてないよぉ〜」は、

1993年に流行語大賞大衆部門・銀賞を受賞しました。

先月25日には、ダチョウ倶楽部の3人で、

都内で行われたイベントに出席。

新型コロナ禍で、「3密」を避ける世相をなげき、

ケンカしてキスに持ち込むギャグが人気の上島さんは、

「俺としては商売あがったりだよ」と話していたそうです。

上島さんの訃報により、

渦中のダチョウ倶楽部ですが、新たに話題となった人物

それが、電撃ネットワークの南部虎弾(なんぶとらた)さん。

かつてダチョウ倶楽部の初代リーダーだったそうで、

肥後さんは2代目リーダーになります。

そんな南部さんは、1951年7月14日生まれで、山形県出身。

1990年1月に、様々なジャンルで活動していた、

パフォーマー達によって「電撃ネットワーク」を結成。

ちなみに電撃ネットワークは、日本のみならず、

ラスベガスやカナダなど、世界的に活躍したパフォーマンス集団です。

そんな電撃ネットワークのメンバーである、

南部さんがダチョウ俱楽部の初期メンバーだったのです。

4人組だった頃を知っている世代からは、

「南部虎弾がいた頃のダチョウ倶楽部が好きだった」、

「結成当初のダチョウ倶楽部が、

4人だったことはあまり知られていない」と、

ネット上にコメントが寄せられていました。

ダチョウ倶楽部の3人は、結成時のエピソードや、

元メンバーの南部さんについて触れることは少なかったようです。

なぜ南部さんが、ダチョウ倶楽部を脱退したのかについて、

ジモンさんは、「4人組で2年ほど活動したころ、

南部さんが突然、『俺はツッコミがやりたい』と言いだしたんです。

当時から南部さんは、頭の真ん中を剃り上げたカッパのような髪型で、

ド派手なサングラスをかけていました。

でも南部さんは『俺は久米宏になる』と言いだしたんですよ(笑)」

また肥後さんは、「南部さんは笑わせたいんじゃなくて、

驚かせたい人なのです」と語っていました。

また上島さんは、

「南部さんから、深夜電話がかかってきて、

『ビー玉飲めるか?』と尋ねてきた。」

と語っています。

南部さんはダチョウ倶楽部時代、

かなり過激な芸風だったようで、

共演者へは根回しも無く毒舌を吐き、

メンバーにも過激な芸を強要していたのだとか。

そんなある日、テレビをつけると、

ダチョウ倶楽部の3人だけで、

テレビに出演しているのをたまたま見つけ、

それを見た彼は、

「クビか・・・」と悟って脱退したのだそうです。

つまり、お笑いに対する方向性の違いにより、

彼は脱退することになったようです。

先述の通り、ダチョウ倶楽部脱退後は、

電撃ネットワークを1990年に結成し、現在に至ります。

そんな南部さんは、現在70歳。

昨年2021年のライブには、電撃ネットワークのメンバーをはじめ、

中村ゆうじさんら、芸人仲間もお祝いに駆けつけ、

パフォーマンスの競演で盛り上げました。

2017年には糖尿病の悪化により倒れ、

その際に、心不全も引き起こしていたため、

心臓バイパス手術を受け、一命を取り留めています。

さらに、2019年には糖尿病で腎臓機能が低下したため、

生体腎臓移植手術を受け、復調。

ユーチューブでの動画配信にも乗り出すなど、

精力的な南部さんは、「病院で検査したら、

血管年齢は80歳だと言われたけど、100歳までお客を驚かせ、

楽しませるパフォーマンスを続けたい。

生まれ変わっても電撃ネットワークをやります!」

と意気込みを見せています。

南部さんは、電撃ネットワークとしての活動だけでなく、

通販番組への出演や、プロレス・格闘技のプロデュースまで手掛けています。

また、スポーツ紙などでは連載も抱えていて、

幅広い活動から豊かな才能の持ち主であることも伺えます。

南部さんがダチョウ俱楽部でしたかったことが、

電撃ネットワークの過激なパフォーマンスに、

繋がっていったのかもしれませんね。

ちなみに、南部さんは、

かつての相方・上島さんの訃報について、

「あまりのことに、言葉も出ません、、

嘘だろ?? 辛い! ダチョウの中で一番いいやつだったのに、、、

苦しかったのかな 今となっては、、お悔やみ申し上げますとしか」

と自身のTwitterでつづり、「合掌!」と追悼しました。

上島さんのご冥福をお祈りするとともに、

2人になってしまったダチョウ倶楽部の、

今後の活動についても注目していきたいですね。

最後までご視聴いただき

ありがとうございました。

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それでは、また。

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