渡瀬恒彦のヤバすぎる数々の伝説…プロ格闘家も頭が上がらない芸能界最強伝説…ムカつく後輩はボコして川に投げ捨てる…兄・渡哲也への想いに驚きを隠せない…
みなさん、こんにちは。
「おみやさん」「警視庁捜査一課9係」「十津川警部シリーズ」などのテレビドラマで、
人情味あふれるキャラクターを演じ、お茶の間で親しまれた、渡瀬恒彦さん。
今回は、そんな渡瀬さんの経歴、喧嘩最強伝説、実の兄、
渡哲也さんとの関係についてご紹介します。
まずは渡瀬さんの経歴についてご紹介します。
渡瀬さんのお父さんは、広島県呉市の軍需工場などを転々とした後、
日立の安来工場に勤務していた時、広島県出身の渡瀬さんのお母さんと結婚されたそうです。
そして、1943年には、任地の日立呉工場を退職し、その後、
渡瀬さんが2人兄弟の次男として、島根県で誕生するのですが、1947年には、
洋品店を開店すべく、実家の兵庫県津名郡淡路町に移り住まれたそうで、渡瀬さんは以降、
兵庫県津名郡淡路町で育ったそうです。
また、当時の渡瀬さんはガキ大将で、とてもケンカが強く、友達をいじめた相手には、
「何やってるんや」と向かっていくような、兄貴肌だったそうで、
友達からはとても慕われていたそうです。
そんな渡瀬さんは、小学卒業後は、
「団体生活で独立心を養うように」とのお父さんの教育方針に従い、
全寮制の三田学園中学校に入学し、中学卒業後は、そのまま三田学園高校に進学したそうですが、
中学3年にして、柔道は黒帯となり、高校時代には水泳部に所属するなど、
スポーツ万能だったうえ、夏目漱石などをいつも読んでいる、読書家でもあったそうです。
ちなみに高校時代は、新聞記者に憧れていたそうです。
文武両道で、なおかつ、涼しい顔立ちの渡瀬さんは、女の子たちから大変なモテようだったそうです
そして、高校卒業後は、一浪の末、早稲田大学、慶応大学、中央大学に合格すると、
尾崎士郎氏の「人生劇場」に憧れ、早稲田大学に進学し、空手部に所属します。
東京では、青山学院大学に通う兄・渡哲也さんと共同生活を始められます。
しかし、当時は「学生運動」全盛期で、大学は講義がないばかりか、卒論もなかったため、
渡瀬さんは、すっかりやる気を失ってしまったそうで、いつしか、高校生の時に憧れていた、
新聞記者になるという夢もいつしか消え、作詞家になろうと、
詩をたくさん書いていた時期もあったそうですが、結局、本当にやりたいことは見つからず、
いつも、仲間たちと、「何かねぇのかな」と、語り合う日々だったそうです。
そのため、渡瀬さんは、最終的には、実社会に出たらハードな職種で、
なおかつ時代の最先端を行く仕事に就きたい、と思ったそうで、
すでに俳優として活動していた兄・渡哲也さんからも、「堅い道を進め」と、
言われていたこともあり、卒業見込みで、「㈱電通PRセンター」に就職されたのでした。
しかし研修期間1ヶ月で会社を退職し、先輩が設立した青山の広告代理店「ジャパーク」に転職。
その後、渡瀬さんは、「ジャパーク」で営業の仕事をされていたのですが、
兄・渡哲也さんの知り合いが不動産屋を始めると、急成長したため、休日になると、
宣伝スタッフとして、手伝いに行っていたそうです。
すると、そこで、たまたま「東映」の社員が居合わせ、「俳優にならないか?」と、
声をかけられたそうで、最初は躊躇したものの、「ジャパーク」の社長に相談したところ、
「絶対マイナスにならないから」と、当時、「東映」の企画製作本部長だった、
岡田茂さんに会うことを勧められたのだそうです。
ただ、渡瀬さんは、映画はまるで興味がなく、兄の渡さんにも映画界入りを反対されており、
そのうえ、「ジャパーク」はお給料が良く、仕事も面白くなってきていたことから、
100%断るつもりで、岡田さんに会いに行ったそうです。
しかし、実際、岡田さんに会うと、「とにかく俺にまかせろ」などと、口説かれ、
渡瀬さんは、
「会ってみたらほんとチャーミングというか、魅力的な人で、
5年くらいは騙されてもいいかなって思った。」
「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。
一発ためしにやってみるか。」
と、すっかり、岡田さんの人柄に魅了されたそうで、
その場ですぐに俳優になる決意をされたのでした。
ちなみに、後年、渡瀬さんは、
「昔は兄貴より俺の方が、親からも親戚からも評価が高かった。大学も俺は早稲田で、
兄貴は青学だって。それで兄貴が役者、俺がサラリーマンになったら、
もらっている金がぜんぜん違う。それはプライドが許さん。」
「学生時代は、『君のお兄さん?』って聞かれるのが、兄貴が役者になると、
『あっ弟さんですか』って。そりゃそうだよな。」
と、兄・渡さんが役者として売れたことで、立場が逆転したことや、体を鍛えていたため、
アクションには少し自信があったことも、俳優になった理由だったことを明かされています。
演技経験が全くない中、サラリーマンから俳優に転身し、数日後には、
岡田茂さんからの「やれ」の一言で、映画「殺し屋人別帳」の主演で、
デビューされた渡瀬さんですが、当初、その演技は、凄まじいまでにひどかったそうで、
渡瀬さんは、間違った世界に来てしまったかと、とても落ち込んだそうです。
しかし、そんな渡瀬さんの思いとは裏腹に、悩む暇がないほど、
次から次へと仕事のオファーが舞い込んで来たそうで、立て続けに映画に出演します。
というのも、「東映」は、それまで、「着流しのやくざが悪を退治する。」
という任侠映画をヒットさせて来たのですが、渡瀬さんが入社した頃には、
すでに日本は高度経済成長が過去のものとなり、先行きが不透明な時代に突入していたことから、
単純に、悪をやっつけてハッピーエンドという展開が、観客に受け入れられなくなり、
その路線は、人気に陰りを見せ始めていたそうで、そんな状況を打破すべく、
新人の渡瀬さんを、現代的なアクションスターに仕立てようと、大々的に売り出していたのでした。
ちなみに、デビュー当時の渡瀬さんはというと、とにかくやんちゃで熱く突っ走っていたそうで、
渡瀬さんと旧知の仲だった「東映」の奈村協さんによると、1972年、
テレビドラマ「かげろう忍法斬り」で渡瀬さんと初対面された際に、
奈村さんが、ある朝早く、「東映」京都撮影所に入ると、
撮影所の駐車場から「キキーッ」という凄まじい音が聞こえてきたため、何かと思って見に行くと、
渡瀬さんが、愛車の「フェアレディ240Z」を使って、スピンの練習をしていたり、
突然、「奈村な、東京へ運ぶ荷物がないか?」と、聞いてきて、
当時、新幹線でも東京から京都まで、3時間15分かかるところを、
「俺だったら3時間で本社に運んだる」と、豪語されたりしたそうです。
そして、そんなやんちゃで熱い渡瀬さんは、次第に、「東映」京都撮影所でも、
認められていったそうで、通常、若い人は、
愛称で「〇〇ちゃん」「〇〇ぽん」と呼ばれるところを、
渡瀬さんだけは別格で、中島貞夫、工藤栄一、深作欣二、山下耕作といった監督をはじめ、
あらゆる人から、「恒さん」と呼ばれようになっていったのでした。
そんなパワフルな人間である、渡瀬恒彦さんですが、腕っぷしも相当なものらしいです。
ここからは、渡瀬恒彦さんの喧嘩最強エピソードについてご紹介します。
身長187センチで、元キックボクサーの安岡力也さんが唯一恐れたのが、渡瀬さんだったそうで、
安岡さんは、イケイケの売出し中だった頃、渡瀬さんに東映会館の駐車場に呼び出され、
半殺しの目にあったというのです。
1990年から約2年半、渡瀬さんの付き人を務めた、俳優の永井なおきさんによると、
「僕が付き人になったのは、渡瀬さんが46歳の時でしたから、
周りの人たちは“丸くなった”っておっしゃっていました。
でも、安岡力也さんには、『お前、恒さんを怒らせちゃダメだぞ。俺が、
どれだけ怖い思いをしたか知ってるか?』と脅されました。
あのおっかない力也さんを震え上がらせていたなんて……」
と、明かされています。
また、渡瀬さんは、不良を売りとして芸能界に乗り込んできた、岩城滉一さんや、舘ひろしさんら、
ロックバンド「クールス」のメンバーにも、
礼儀を知らず、調子に乗っているという理由から、ボコボコにして川に放り込んだとか。
そして、11歳年上で、早稲田大学の先輩でもあり、俳優としても、「東映」の先輩でもある、
菅原文太さんにも、酒癖が悪かったことから、
「お前、帰れ!」と、怒って一喝。
ただ、「先輩なんだから金は置いてけよ」と、お財布は出させていたそうです。
さらに、「芸能界のドン」と言われた若山富三郎さんにまで、
「その大先生とやらは何処にいるんですかい?」
と、言っていたそうですが、天下の若山さんも、渡瀬さんの睨みには恐れをなし、
何も言えなかったそうです。
そして、当時、芸能界最強の一人と言われた、歌手で俳優のジョー山中さんも、
渡瀬さんの目つきを見ただけで縮み上がって、
「あの人、怖いけど誰ですか?」と、内田裕也さんに泣きつき、
元ボクシング世界王者のガッツ石松さんまで、「恒さんに比べたら大したことない」
と、負けを認めていたと言われており、そのほかにも、渡瀬さんには、
・屈強な黒人の米兵3人を相手に大暴れした
・反社会的組織にさらわれた、国士舘の知人学生たちを助けるべく、一人で事務所へ突入した
・血気盛んだった松田優作さんも一瞬で倒した
・4人のヤクザを5分でKOした
など、現実離れしたマンガ並みのエピソードが数多く残っています。
そんな渡瀬さんのケンカを、映画「不良番長」で共演された梅宮辰夫さんは、
目撃したことがあるそうで、梅宮さんによると、「不良番長」の撮影期間中、梅宮さんは、
渡瀬さん、安岡力也さん、鈴木ヤスシさん、大原麗子さんの5人で、六本木にある焼き鳥屋で飲み、
その後、店を出て、いい気持ちで道を歩いていたそうですが、向こうから、
サラリーマン風の男たちが5~6人、千鳥足でやってきたそうで、
こちらも道幅いっぱいに広がって歩いていたため、このまま歩いていけば、
ぶつかるのは間違いないと思った梅宮さんは、
「おい、気をつけろよ。ぶつかるんじゃないぞ」と、みんなに、軽く注意したそうです。
しかし、渡瀬さんと安岡さんはまるで聞いておらず、案の定、肩と肩がふれあい、
一触即発の雰囲気に。
梅宮さんも、「男が酔っぱらってケンカするくらいのことはしょうがない」
と思っていたそうですが、こちらは全員芸能人のため、できれば警察沙汰は避けたいと、一応、
「おい、やめとけよ」
と、再び注意されたそうですが。渡瀬さんと安岡さんは、サラリーマンたちと睨み合った途端に、
手が出たそうで、それからは取っ組み合いのケンカに発展。
ただ、相手のサラリーマンたちも、すぐに渡瀬さんと安岡さんの実力が分かったようで、
大した騒ぎにはならず、このケンカは終わったのだそうです。
次は渡瀬さんの、女性関係についてご紹介します。
渡瀬さんは、1973年、同じ「東映」に所属していた、女優の大原麗子さんと結婚されています。
お二人は、1970年、映画「三匹の牝蜂」の共演で知り合った際、お互い一目惚れし、
後に交際に発展したそうですが、
当時、大原さんはすでにスター女優として活躍されていた一方で、渡瀬さんはまだ駆け出しの俳優。
そんな中、中島貞夫監督や俳優仲間たちが、
大原麗子クラスのスター女優に、言うことを聞かせるぐらいじゃないとダメだ
と、渡瀬さんをそそのかしたそうですが、
中島監督によると、渡瀬さんは、後日、本当に、中島監督の京都の自宅に大原さんを連れてきて、
「結婚するので嵯峨野に家を探している」と、相談してきたそうで、仰天されたとか。
ちなみに、大原さんの付き人をしていた、大原さんの実弟・大原政光さんによると、
「結婚した当時、僕は姉の運転手をやっていました。僕がいるのにまるでいないかのように、
“だっこ”とか言って、姉が渡瀬さんの膝の上に乗ったりして、完全に2人の世界。」
と、二人は人目も気にせず、ラブラブだったそうです。
しかし結婚して間もなく、渡瀬さんのお父さんが他界し、
独り身となったお母さんを引き取ったことで暗転します。
家事が一切できない大原さんに、厳しく家事を教え込むなど、昔ながらの姑だったそうで、
大原さんも、そんな姑に歩み寄ろうとするも、うまくいかず、そのうえ、やがて、
渡瀬さんが売れっ子になったことで、京都での仕事が増えて、自宅に帰れない日が続き、実質、
大原さんは、姑と二人暮らしと、気詰まりな生活を送るはめになり、
甘い新婚生活どころではなくなってしまったのでした。
ただ、渡瀬さんが、そんな大原さんを気遣い、京都に生活の場を移して、
夫婦一緒に暮らそうと提案されるも、すでに売れっ子女優だった大原さんの仕事場は、
ほとんどが東京。
そのため、大原さんは、女優を辞めてまで京都に移り住むことができず、このことが原因で、
お二人の間にすれ違いが生じてしまったそうで、大原さんは、
そのことにかなり落ち込まれたようです。
渡瀬さんの兄は、渡哲也さんですが、お二人の関係について見ていきましょう。
渡さんが渡瀬さんのことを、
「あいつは小さい頃、一度に犬を4匹連れて散歩に行った。
みんなが危ないから止めろといっているにも関らずにね。
そうしたら案の定、犬に引き摺られて傷だらけになって帰ってくるんだ。そういう奴なんだよ。」
「身内なもので、話しにくいですが。味のあるいい俳優になったと思っています。
本当にうまい役者になったなと。」
と、お兄さんらしく語っているのに対し、
渡瀬さんも渡さんのことを、
「兄は俳優という範疇を超えている。石原裕次郎さんもそうだけど、
努力なんかで追いつけない他の人にはない何かを持っている。」
「兄は俳優としていちばんいい時期に、石原プロに尽くしているんですよ。ある時、兄に、
「どうして石原プロなの?」と聞いたら、「裕次郎さんだ」と言うんです。
「裕次郎さんが何?」と聞くと、「優しいんだ」と。
人を許すことができる裕次郎さんの器の大きさ、それと同じようなものを、
ぼくは兄から感じるんです。」
と、畏敬のまなざしで見ていたようです。
ただ、別のインタビューでは、渡瀬さんは渡さんのことを、
「僕から見たら、兄貴程度の芝居しかできなかったら、とっくに消えていただろうなと。
兄貴は下手ですね(笑)」
と、弟らしく語っており、「ケンカ最強伝説」を持つ渡瀬さんも、器の大きい兄・渡さんの前では、
かわいい弟でいられたようですね。
いかがでしたか。今回は渡瀬恒彦さんについてご紹介してきました。
最後までご視聴いただきありがとうございました。
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それでは、また。